綴り字のシーズン
監督:スコット・マクギー/デヴィッド・シーゲル
出演:リチャード・ギア/ジュリエット・ビノシュ/フローラ・クロス/マックス・ミンゲラ/ケイト・ボスワース
30点満点中18点=監4/話3/出4/芸3/技4
【理想的に見える家庭に潜んでいるもの】
大学で教鞭をとる宗教学者ソール・ナウマン。美しい妻ミリアム、大人しくてデキのいい長男アーロンと長女イライザに囲まれて、理想的な家庭を築いているように思えた。だがイライザは、父の壁の高さに寂しさを感じ、アーロンはソールの押し付けから密かに脱しようとし、ミリアムは誰にもいえない秘密を心の中に抱える。そんな中、イライザは学校代表としてスペリングのコンテストに出場、順調に勝ち上がっていくのだが……。
(2005年 アメリカ)
★物語のラストに関わる記述があります★
【世界を再生するために必要な覚悟】
「すごく“説明”の少ない映画ですね」
「うん、かなり“描写”に力を入れていて、見せてわからせる、考えさせるということを前面に出している。小さいんだけれど映画的な作品だね」
「しかも、なにげない描写なんですよ」
「ソールがクルマから降りた後で当たり前のように助手席に移るアーロンだとか、トロフィーを抱えたイライザの微笑とか、チラっと映される行動や表情の裏側にある各人の立場や心情が読み取れる、そんな作り」
「そうした鮮やかな“描写”の中に、この家族のぎこちなさも漂います」
「たとえばソールがイライザを抱き寄せるところね。わざわざコマ落としにしてある。意味ありげに。ふたりのギクシャクした心の距離感の表現なんだろうね。そのことに親父は気づいていないんだけれど」
「脚本も、語り過ぎていません」
「ああ、そういうことなのか……って読解させるようなものになっていた。ミリアムが顕微鏡を覗く仕事を選んだのも、トラウマが原因だったのだろうなって」
「それを万華鏡と対比させたりして、見た目でわからせます」
「見た目と、あと突然吐き出されるセリフね。アーロンが弾くチェロ、きっと『やらされていた』んだろうな、とかいったことが、直接ではなく間接的な、思いがけないセリフで気づかせる」
「それと『なぁんだ、この親父さん、料理は下手だったのか』とか(笑)」
「BGMもこうした“描写優先”の作りを綺麗に支えるし、呼吸やクルマの走行音を適度なレベルで捉えて『その場感』も出している」
「思考や記憶、神が降りてくる瞬間の視覚化にも成功しています。つまり技術的にも優れた映画なんだと感じました」
「ただ、ミリアムの扱いは“やりすぎ”かなとも思う」
「完全にサスペンスですもんね。フラッシュバックをあそこまで使うのではなく、他の家族と同じように微妙な描写で押して欲しかったところです」
「それにしても、よくメジャーがこんな映画を作ったよなぁとも思った」
「ある意味では反宗教的、反キリスト的なんですよね」
「最初は確かにそう感じたんだ。アーロンなんかキリスト教的なものを拒絶するわけだしね。でもひょっとすると、そういう場面を通じて『人と宗教との関わりあいかた』を見つめなおさせる機能を持つ作品なのかな、とも思えてくるんだ」
「という観点でみると、まずは神に近づくことの限界が描かれます」
「人間が抱えるウソやエゴや心の闇が出てきて、ね。その部分は『お前らどう頑張っても、人間は人間、出来損ないなんだから』という教訓、身の程知らずに神へ近づこうとする行為の愚かさを知らせるもので、神を絶対的なものと捉えている。反キリスト的ではないよね」
「でも最後には、神を否定するんですよ」
「そう。神の存在を否定するのではなく、神がいることを認めたうえで『必要ない』っていっちゃう」
「あるいは『もっと大切なものがあります』というか『私たちだけでやっていきますから』というか。神との合一ではなく家族がひとつになることをイライザは選択したわけです」
「うん。だから反宗教的にも感じたんだけれど、でも『まずは家族から』という価値観は、別に神の否定にはつながらないんだよね」
「むしろそれこそが『ティクン・オラム』=世界の再生である、と」
「そうそう。人がやらなくちゃいけないのは、まずそこでしょ、自分の足もとと周囲を慈しみをもってご覧なさいよ、そこに横たわっている問題を片付けることからティクン・オラムは始まるんですよ、と」
「そういうメッセージを伝えるということは、キリスト教的な価値観に根ざしたうえでの『家族のありかた』を考えさせる映画なのかも知れませんね」
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