ブレイブ ワン
監督:ニール・ジョーダン
出演:ジョディ・フォスター/テレンス・ハワード/ニッキー・カット/ナヴィーン・アンドリュース/メアリー・スティーンバージェン/イネ・オロハ/ジェーン・アダムス/ラファエル・サルディナ/ゴードン・マクドナルド/ゾーイ・クラヴィッツ
30点満点中19点=監4/話3/出5/芸3/技4
【そして彼女は、この町で生きかたを見つけた】
NYのラジオ局でパーソナリティを務めるエリカ・ベインは、医師デイビッド・キルマーニとの結婚を控えて幸せな時間を満喫していた。だが、犬の散歩に出かけた夜の公園で暴漢たちに襲われ、デイビッドは死亡、エリカ自身も身体と心に大きな傷を負う。護身のために持った銃で人を撃ち、ついに“境界線”を越えてしまうエリカ。いっぽうマーサー刑事は、巧みに法の網をすり抜ける男モローの捜査を進めつつ、エリカの様子を見守るのだった。
(2007年 アメリカ/オーストラリア)
【素晴らしい仕事と、戸惑うラスト】
本作には主に「音」として、“日常”が詰め込まれている。ジェット機が頭上を飛び、工事用機械はけたたましく鳴り響き、隣家からはテレビの音が漏れ聞こえ、靴底が石畳を叩き、テニスボールが跳ねる……。僕らの暮らしの背景とでも呼ぶべき音たち。
それらは本来、僕らを包んでくれるものであるはず。それをエリカも丹念に拾い集め、そこに自らの想いを乗せて語ることを仕事としている。
世界が僕らの周りにあって、そこで僕らはさまざまな想いを抱く。
ところが一瞬の後、“日常”は牙をむく。背景であることをやめ、僕らから逃げ場を奪うように取り囲んでくる。想いを麻痺させる。
心のありようによって、こんなにも“日常”は重く苦しいものとして迫ってくるのだ。
エリカの心に巣食う恐怖、というよりも、ギリギリとエリカに迫る重く苦しい“日常”が、シャープな絵柄・構図や分厚い音楽で緊迫感たっぷりに捉えられる。
カメラワークも印象的だ。大きく動いて、エリカを追う。まるで僕ら観客が彼女を取り囲んでいるように。なるほど僕らも誰かにとっての“日常”である。ふだんは“安穏たる日常”なのだが、ふとしたきっかけで、誰かを取り囲んで苦しめる世界の一部になってしまうのだ。
加えて、愛のための動作がそのまま死を想起させる動作として描かれる。人と人をつなぐはずの携帯電話が凶器に成りうることも示される。業務を円滑にする名目でおこなわれている「マニュアル対応」が人に疎外感を与えることを思い知らされる。
僕らの周りに日常世界としてあるモノやコトは、受け取る人や用いる人によって大きく大きく意味を変えてしまうのである。
が、人というのは寂しい生き物である。自分を取り囲む壁に光射す部分を探し、たがいをただの“日常・背景”に押し込めるのではなく、より近い存在になろう、より近い存在にしたいという欲望を持つものだ。
凄惨な過去を持つ隣人ジョサイは、それゆえに優しさを身につけ、エリカの理解者になれたのかも知れない。エリカ自身も、クロエにとっては背景以上の存在になったはずだ。
そして、エリカとマーサー。ゆっくりと心を通わせるふたりは、たがいに仕事ぶりを認めあい、特別な存在になれたことは間違いない。ただ、出会うタイミングが悪かったのだ。
エリカはそこにとどまろうとはしない。もうできない。自らに疑問を感じながらも突き進む。事件を契機として彼女が変わったのではなく、もちろん復讐でもなく、優しい“日常”を壊そうとするものたちに抵抗しようとしただけ。そんなふうに感じられる。
その抵抗を勇気という言葉に置き換えてのタイトルなのだろう。
それにしても、ジョディ・フォスターの演技力と存在感の、なんと素晴らしいことか。単に「役になりきる」のではなく、しっかりと自分の中でエリカという女性や人全般の苦悩を消化して、芝居として表現してみせているように思える。
ところどころ暗転や長めのカットがあるのだが、それでもリズムや重みが削がれないのは、ジョディ・フォスターという女優が内包する濃密さゆえであろう。
相手役テレンス・ハワードや隣人役イネ・オロハも、訥々と、真摯に、エリカと向かい合っていく。
と、テーマ性や演出・作り、出演陣、あらゆる点で輝きを放つ本作であるが、問題はラスト。正直「えっ?」であり、恐らくは賛否両論あるだろう。
なんとか考えをまとめると「人としては『賛』、というか『認めなくはないが是』かも知れない。けれど映画としては『否・非』ではないか」といったところ。かといって、他のどんな結末でも後味の悪さは残っただろうが。
そう思うと、「実はまったく救われていないエリカ」という姿は、人と人間社会の苦しみ哀しみを具現化したものとして、これ以外になかった結末という気もしてくる。
人というのは、罪深い生き物である。
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