« オーメン | トップページ | コーリャ 愛のプラハ »

2007/11/10

スタンド・バイ・ミー

監督:ロブ・ライナー
出演:ウィル・ウィートン/リバー・フェニックス/コリー・フェルドマン/ジェリー・オコンネル/キーファー・サザーランド/マーシャル・ベル/ジョン・キューザック/リチャード・ドレイファス

30点満点中20点=監4/話4/出4/芸4/技4

【あの夏のような友だちは、もうできない】
 中学への進学を控えた夏休みのある日。いつものように隠れ家で遊んでいたゴーディ、クリス、テディのもとへバーンがやって来る。彼によると、線路沿いを数十km行ったところにある森で、行方不明になっている少年が死んでいるのだという。死体の発見者となって新聞に載ろう。水筒やシートを持って小旅行へと出かける4人。和やかに進むと思われた旅だったが、少年たちの心には少年なりの、想いや闇が潜んでいるのだった。
(1986年 アメリカ)

【この世界で、自分を後押ししてくれる力】
 1987年に『クロスロード』(ウォルター・ヒル監督)との二本立てで観て以来の観賞。書き残してあった当時の感想の中に、きょう観たときに読み取ったのと同じ「!」があったのには笑った。
 いわく「ラストの握手をフレームの外に置いた配慮がいい」。確かに、彼らふたりが見えないところでちゃんとつながっていることを示す名シーンだと思う。映画の“どこを観るか”は、20年経っても変わらないんだなぁ。

 でもさすがに、何を感じるかは変わって当然。たとえば以前よりも強く、本作に埋め込まれた「死」が印象に残った。歳を取った証拠だ。
 ブラワー少年の死体だけでなく、クリスが刺された事件、ゴーディの兄、戦争、迫り来る列車、拳銃、ナイフ……。あちらこちらに死と、そこへ続く道とが散らされている。さらに「生きることは死に向かうこと」という、情け容赦も血も涙も神も仏も救いもへったくれもないセリフ。
 また、昨日までと同じ「じゃあな」が、実は今生の別れにもなりうるという残酷さも描かれる。

 加えて本作、真っ当な大人がひとりとして登場しない。精神を病んだり己の価値観を一方的に押しつけたり刹那的に生きていたり。4人の周囲はクソったれで埋め尽くされている。そんな世の中で、どんなに立派な葬儀を営んでもらおうが、森の中で息絶えようが、所詮はクソったれの中で死んでいくだけの人の生。死は平等に訪れ、存在はゼロに帰すのである。

 こんな世界で、自分自身を認めることは、かなりタイヘンだ。結局のところ自分をクソったれに貶めないためには何より自分自身の力を認めることが大切であり、自分の足で自分が選んだ方向へと歩き出すことからすべては始まるのだが、それって相当にタイヘンなことだろう。
 でも「人間はみんな変わっている」とクリスがいうように、それぞれが別の“個”として絶対確実にいまを生きているんである。その“個”を理解し認めたうえで全面的に肯定してくれる相手、歩き出す力を与えてくれる人がそばにいるならば、その幸せを味わうことのできる世界でもあるはずだ。

 美しい色合いで捉えられる自然を背景に、肯定しあうウィル・ウィートンのゴーディと、リバー・フェニックスのクリス。瑞々しいヴィジュアルだけでなくその関係の意味合いにおいても、映画史に残るベスト・ツーショットではないだろうか。

 あさのあつこの諸作品、あるいは吉田秋生の『バナナフィッシュ』、『遠い空の向こうに』などへと、この『スタンド・バイ・ミー』の遺伝子は受け継がれているように思える。それはすなわち、何十年経っても、国や表現方法が違っても、普遍的な価値観が息づいている作品だということだ。
 個として認めること、認めてもらうことの、輝き。
 さすがに「ああ、たぶんショタの本質って、そういう価値観にあるんだよね、と気づくことのできる映画」というのはやりすぎだけれど、社会の中で生きていくとはどういうことなのか、そこでは何が必要なのか、その必要なものを手に入れられなかった者はどうすべきなのか、と、考えさせ、涙を流させる作品である。

|

« オーメン | トップページ | コーリャ 愛のプラハ »

コメント

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: スタンド・バイ・ミー:

« オーメン | トップページ | コーリャ 愛のプラハ »