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2007/11/29

天空の草原のナンサ

監督:ビャンバスレン・ダヴァー
出演:ナンサル・バットチュルーン/ウルジンドルジ・バットチュルーン/バヤンドラム・ダラムダディ・バットチュルーン/ナンサルマー・バットチュルーン/バッバヤー・バットチュルーン/ツェレンプンツァグ・イシ

30点満点中18点=監4/話3/出4/芸4/技3

【モンゴルの大草原、家族の暮らし】
 町の小学校から草原へと、久々に戻ってきた少女ナンサ。広大な自然に包まれて、幼い妹や弟の面倒を見ながら、母にいわれて燃料となる牛の糞を拾い集め、あるいは父を手伝うべく馬にまたがって羊を追う。ある日のこと、ナンサは岩穴で見つけた子犬にツォーホルと名づけ、住まいであるゲルへと連れ帰る。だが父親は「犬は狼を呼ぶ」といって飼うことを許さない。そして一家には、放牧地を移動する時期が近づいていた。
(2005年 モンゴル/ドイツ)

【なんてことのない世界から、あふれ出すもの】
 ゆるぎのない美しさをたたえる自然、シルエットを遠くから捉えただけなのに圧倒的なまでの情報量。そんなファースト・カットから心を奪われる。

 以後も、草原を背景に、誰(何)を、どんなサイズとフォルムで、どのような位置に収めれば美とリアリティとを両立できるのかを完全に把握しているかのような絵づくりを見せてくれる。教訓と自戒と皮肉とを丹念に織り込みつつも、モンゴルの高原に住む民族のありのままを伝えようとする意気を感じさせてくれる。

 たとえば、チビちゃん=末っ子・長男の扱い。最初は誰もが女の子だと思うだろう。ところが「あれっ?」と気がつく。ああそうか、上のふたりがお姉ちゃんなので“おさがり”を着せられているのか。そこに潜む、抜群のリアリズムと「あえて説明せず、見せて気づかせることの粋」
 そしてこのノーブルな、まだ人間になり切っていないチビちゃんが、ノーブルさゆえに果たす重要な役割、そこに見られる物語構成力。

 淡々と家族の暮らしを写し取り、端正な画面は写真的、そのナチュラルな空気感はドキュメンタリーにも思えるほどなのだが、各カットからは計算された“作り”の確かさとメッセージ性とがあふれ出す。ただ撮っただけにあらず、ただ美しいだけにあらず。
 決して気負ったところも奇をてらったところもないのだけれど、極上の完成度を誇る作品といえるだろう。

 そして当然のことながら、こうした映画を見せられると「生きるとは、どういうことか」といった方向へと思考はおよぶ。
 乾燥した牛の糞を積み上げることが“遊び”となる生活。プラスチック製の柄杓や懐中電灯が“お買い物”となる暮らし。野生とともにあり、野生に怯え、思い通りに行かないことで満ちている世界。
 けれどそんな中(少なくとも現代日本人のヤワな自分から見れば、ギリギリ最低限、2日といたくない生活だ)にあっても、単に生きることをすべてとはせず、人としての生を全うしよう、より善く生きよう、来世ではもっと善く生きようという価値観が、ここには根ざしている。

 なんてことのない家族の、なんてことのない日々かも知れない。でも、なんてことのない日常の中に生きることの真理が顔をのぞかせる。この映画の各カット/シーンに見られるような数多くの情報となって、「生」は、われわれの周囲を包んでいるものなのである。

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