リトル・ミス・サンシャイン
監督:ジョナサン・デイトン/ヴァレリー・ファリス
出演:グレッグ・キニア/トニ・コレット/スティーヴ・カレル/ポール・ダノ/アビゲイル・ブレスリン/アラン・アーキン
30点満点中18点=監4/話3/出4/芸4/技3
【ちょっとおかしな家族のロード・ムービー】
パパのリチャードは負け犬人生が大嫌い、自己啓発プログラムの売り込みに懸命だ。グランパは老人ホームを追い出された問題児のジャンキー。長男のドウェーンは、もう何か月も誰とも口をきいていない。フランク伯父さんはゲイのプルースト研究家で、自殺を図ったばかり。そんな家族に振りまわされ続ける、口やかましいママのシェリル。一家は黄色いバスに乗り、小さなオリーブをミス・コンテストに出場させるため、大陸横断の旅に出る。
(2006年 アメリカ)
【ホントの意味でのファミリー・ムービーかも】
バラバラで負け犬同然だった家族が旅を通じて再生する、といった論調で語られがちな本作だが、実はそうじゃない。
最初っからみんな立派じゃないか。それぞれに目的があり、そこへ向かって一直線で、いいにくいこともズケズケと口に出し、行動力があり、たとえクソったれな人生だとしても楽しもうとする気概を見せる。
みんな自信はなさそうだし、イライラもしているし、小さくて平凡な家族だけれど、決して負け犬なんかじゃない。
作品そのものも、自信なさげに、小さく平凡に、テレビサイズでまとまろうとする。でも、やっぱりそうじゃない。
丁寧かつナチュラルに生活感を醸し出したフーヴァー家の室内、あくまでも小道具の1つとして扱われながら心に残るフォルクスワーゲンのミニバスといった美術は、まさに映画の仕事。1時間40分にバランスよくアクシデントと見どころを散らしてテンポよく突っ走るのも、映画のリズム。スクリーンサイズを生かし、その中に登場人物を上手に配置して印象的な構図を作るのも映画ならではだ。
そうそう、その画面作りからも、バラバラじゃないぞというメッセージを読み取れる。ひとりで途方に暮れている場面は意外と少なくて、常に、誰かと誰かがしゃべっていたり、誰かの視線の先に誰かがいたり、家族そろってレストランのメニューを見ていたり、パパとママが並んで座っていたり……と、ほぼすべての画面で「家族がいっしょにいる」ことが示されるのだ。
だいたい、みんなで乗れるミニバスなんかを持っていることじたい、この家族は“1つの時空に共存している”ことの証拠。「同じ船に乗っている」という言葉があるが、彼らは「同じクルマに乗っている」運命共同体なのである。
そりゃあ家族といえど軋みはあるだろう。ルールを破ることもある。乗っている船を動かすのにタイヘンな苦労をすることも。でも、走り続ける。走り続けるしかない。走りたいと願う。
そして、走るためには、みんなの力が必要だ。力を合わせることを厭うこともあるけれど、それはポーズ。だって、もともと家族なんだから「力を合わせて走る」ことは当然だって、みんな思っている。
ある事実を知って落ち込むドウェーン、彼に対してオリーブが見せる深い深い優しさ、その優しさに触れていとも簡単に立ち上がるドウェーン。この場面からも、彼らが最初から“立派な家族”だったことがわかる。立派な家族だからこそ、何にこだわればいいのか、いま誰のために何をすべきかが瞬時にして理解できるのだ。
最後にこの家族は、世界中を敵にまわす。そうしてでも家族を守りたい、それこそが家族なんだという信念のもとに行動する。いままでは、ホントにこれでいいのかなという不安が自信のなさやイライラや問題行動となって現れていた。でも「それでいいんだ。敵は家の中じゃなくて外にいるんだ。外の人たちにとっては問題だと思える行為でも、家族が理解してくれるならそれでいいんだ」という結論へと至る。
そんな家族があるなら、それは負け犬なんかじゃ決してない。
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