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2007/12/23

十二人の怒れる男

監督:シドニー・ルメット
出演:マーティン・バルサム/ジョン・フィードラー/リー・J・コッブ/E・G・マーシャル/ジャック・クラグマン/エドワード・ビンズ/ジャック・ウォーデン/ヘンリー・フォンダ/ジョセフ・スウィーニー/エド・ベグリー/ジョージ・ヴォスコビッチ/ロバート・ウェバー

30点満点中19点=監4/話4/出4/芸3/技4

【ある陪審員が抱いた合理的な疑い】
 スラム街に暮らす18歳の少年が犯したとされる、父親殺し。階下の老人が耳にした「殺してやる!」という叫び声、それに続く物音と逃走する少年の後姿、向かいに住む女性による目撃証言、凶器は少年が購入したのと同型の珍しいナイフ……。証拠のすべてが有罪を指し示していた。が、陪審員8番の男だけは、議論なしに死刑を言い渡すべきではないと主張する。やがて検証によって各証言に疑いのあることが明らかとなっていく……。
(1957年 アメリカ)

【ヒリヒリとした緊迫感を味わう】
 オープニングで感じたのは、やっぱり裁判所ってのは威厳ある建物でなきゃってこと。近代的なビルじゃダメなんだ。どっしり真っ直ぐ、そびえ立つ柱。これでこそ判事も検事も弁護士も証人も、居住まいをただして宣誓にも心がこもるというもんだ。

 とはいえ本件に関しては、判事も弁護士も証人もトンチキだったわけで。こんなにも穴だらけの証言なら、陪審員8番でなくとも不審に思う。
 その8番=ヘンリー・フォンダ。約20年前の感想メモでは「信念」という言葉を使ってこの人を評しているのだけれど、今回はむしろ「コイツ、ヤなヤツだなぁ」と感じた。だって、他の陪審員が寝返るたびにニヤリとするんだもんな。3番をワナにかけるし、「どうだかわからない」とスっとぼけることも多いし。どことなく東京東海大学言語学研究センターの碑文谷潤教授に似ているし。
 策を弄して、こいつはこう攻めれば落ちるだろうという計算の下に議論を進めて楽しんでいるようなイメージ。信念というより「確信」だ。

 なんだか正義や法の精神というより“丸め込みの手法”、リーダーやカリスマが生まれる過程を描いた作品にも思えてくる。『ニューオーリンズ・トライアル』とか『DETH NOTE』に雰囲気は近いな。
 そう、自分は絶対に足を踏み外さないという確信とともに綱渡りをする人の物語。

 そして、その綱渡りを、こんなにも面白く見せてくれる。映画の良し悪しは決してスケールや派手さで左右されるものではないことを教えてくれる。
 被告の少年の顔をじっくりと見せることで観客を当事者に置く。音楽を抑えることで観る者にも思考を促す。暑苦しい密室、思いもかけぬ展開という状況が陪審員たちにもたらす緊迫感をそのまんま写しとる。
 ナイフがテーブルに突き立てられるタイミング、叫び、沈黙、突発的な発言など、見事に計算し尽くされた緩急自在の構成。ほぼリアルタイムで進行するストーリーの中に、まさにリアルタイム性が問われる“15秒の検証”を盛り込む妥当性。序盤の長回しをはじめとした、なにげに凄いカメラワーク、それによって作り上げられる立体感。
 何度、鳥肌が立ったことだろうか。

 特に感心したのが、カットの切り替えの“間”。ここは喋っている人を撮ったほうがいいんじゃないの、というところでもその人を画面の外に置いたまま、ワンテンポ遅れて意表を突いたアップなんかを挿入してくる。
 この絶妙のハズシ具合いが、さらに「思いも寄らぬ方向へ話が進むことによる緊張」を増大させていくのだ。

 前述の通り、あまりに証言が穴だらけで、それに対して推測だけで“合理的な疑い”が積み上げられていく点はちょっと気に食わないが、約100分間持続するヒリヒリした空気は極上。
 やっぱり陪審制というのは、面白い作品を生み出す良質の素材なのだ。早く日本にも裁判員制度が根づいて、本作や『十二人の優しい日本人』を超えるものが誕生することを心から願う次第である。

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