ムーンライト・マイル
監督:ブラッド・シルバーリング
出演:ジェイク・ギレンホール/ダスティン・ホフマン/スーザン・サランドン/エレン・ポンピオ/ホリー・ハンター/ダブニー・コールマン
30点満点中20点=監4/話5/出4/芸3/技4
【奇妙で哀しい、それは家族】
フロス夫妻と同居するジョー。彼のフィアンセだった夫妻の娘ダイアナは事件に巻き込まれて死亡したが、そのままふたりと寝食をともにしているのだ。葬儀、遺品の整理、裁判の準備と慌しい中で、かねてからの予定通りジョーを誘って不動産業を始めようとする父ベン、周囲を敵視して仕事も手につかない母ジョージョー。そんなふたりにジョーは、ある秘密を打ち明けられないでいた。やがて彼は郵便局で、バーティーという女性と知り合う。
(2002年 アメリカ)
【何者でもない彼が、踏み出すまで】
悲しみには、いろいろなカタチがあるものだ。フロス夫妻は、なかば躁のように振る舞って時間をやり過ごそうとする。その、明るい暗さ。けれどやはり心を覆う闇は隠しようもなく、家の中のあちらこちらに影を落とす。
一歩家を出れば、野球や自転車に興じる少年たちの生命感が町にはあふれている。ダイアナの夢見ていたイタリアが、そこここに顔を覗かせる。その事実が、また悲しい。
それにしても、リアルだ。たぶん本当に、突然の不幸とそれに続く“直面しなければならないこと”に見舞われると、人間はこんな風に、闇雲に動いて体内に火をおこし、それで自分自身と周囲を照らそうとして、空回りしてしまうのかも知れない。
でも、ベンもジョージョーも分別と経験のある大人であり、完全に壊れてはしまわない。空回りし切れないのも、また悲しいことだ。残酷だけれど、突如としてラジオが鳴ったり猫に脅かされて転んだりと、コミカルな瞬間もまた悲嘆に暮れる人々のもとへとやって来る。
そうしたリアリズムを、ドキュメンタリー・タッチへと落とし込むのではなく、ちゃんと作り込んで表現しようとする本作。特にジェイク・ギレンホール、ダスティン・ホフマン、スーザン・サランドン、エレン・ポンピオら主要キャストが、みな役柄の置かれた状況や心情を十分に理解したうえで演技で示そうとしていて、その心意気がうれしい。冷静に対象物を捉えるカメラの、濃淡が印象的な画面もいい。
そして、練られたシナリオ。音を立てるワイパーは窓の軋みとなって再現され、ニクソン(犬)の散歩、箱から出される靴、75通の手紙、タイプライターといったキーワードがリフレインされて、がっしりとした世界を、いや1つ1つのモノゴトに人間が意味を与えることではじめて輝く世界、というものを作り上げていく。
冷めた夫婦関係について吐露するジョージョーだが、その言葉とは裏腹に彼女の薬指には指輪が光る。突き出すお尻も、イヤミも、そして指輪もみな等しく意味を持ち、それはベンとジョージョーを“夫婦”という意味のある関係として維持しておくために必要なものたちなのだ。
いっぽうでジョーは徹底して、何者でもない存在として描かれる。夢を持てず、行動を起こせない青年。だが彼の目の前には、どこか滑稽ながらも懸命に父であり母であり夫婦であろうとする人たちがいる。愛されていたことにすがって想い出を守り通そうとする人がいる。
そして、ダイアナを撃ち殺した男がいる。立場的にはジョーによって裁かれるはずの身なのに、ジョーが何者でもないのに対して、彼は「ダイアナを撃ち殺した男」であり、その背景には「愛された男」という姿もある。
そこでジョーは、少なくとも自分自身と、彼を愛してくれた人に対して正直であろうと決めたのだ。言いなりと偽りを身にまとっているだけでは、自分はこのまま何者でもないまま終わることを悟って。
依然としてジョーは、自分がどこへ行くのかわからないままだろう。けれど相手の6割を知り、さらにその向こうへ進もうという決意はある。そのためには自分を取り巻くものをありのままに受け取ることが必要だ。そのことにジョーだけでなく、ベンもジョージョーもバーティーも気づいた。
シエロ(空)。それは窓の向こうにあって、その窓は自分の手で開けるほかないのである。
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