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2008/03/20

ククーシュカ ラップランドの妖精

監督:アレクサンドル・ロゴシュキン
出演:アンニ=クリスティーナ・ユーソ/ヴィッレ・ハーパサロ/ヴィクトル・ブィチコフ

30点満点中19点=監4/話4/出4/芸4/技3

【兵士と兵士と女。言葉の通じない3人】
 第二次大戦末期のラップランド。湖畔の一軒家ではサーミ人のアンニが、夫を兵役に取られてからの4年、ひとりでつつましく暮らしていた。「俺は戦わない」というフィンランドの若い兵士ヴェイッコは、処刑のため岩につながれたが、かろうじて逃れ、アンニの家にたどり着く。反逆罪に問われたロシア兵クソクラ(ショルト)は、裁判への途上で誤爆を受けて負傷、アンニに拾われる。たがいに言葉の通じない3人の、奇妙な共同生活が始まる。
(2002年 ロシア)

★ネタバレを含みます★

【冷徹にシニカルに、人の愚かさと向かうべき道を示す】
 中盤で「言葉が通じないこと」と「男どものガキっぽさ」が、笑いのタネとして用いられる。だが、この2つこそが人類の悲劇であり、戦争を引き起こすのだと本作は伝える。

 ただし、幸いにもそうした悲劇を乗り越えるものもあることが示される。すなわち生(性)と死だ。
 序盤、ガッツリと描かれるヴェイッコの脱出劇。普通なら鎖を銃でバンっと撃って終わりのところを、30分かける。そこからうかがえる生への執着と、生きることの難しさ。
 終盤、死の世界へ旅立とうとするヴェイッコを呼び戻すアンニの姿にも、たっぷりと時間が割かれる。死なせたくないという痛切なる想い。
 そのアンニは、鍋に乳を直接汲み、小麦粉の替わりに木くずを用い、男を求める。なんとダイレクトでシンプルな生(性)だろう。
 女性を愛することを求めるクソクラは、嫉妬し、うろたえ、腹をくだし、軽率な行為に走って後悔する。その狼狽は、人の生の証。

 たとえ言葉は違えども、どんなにガキであろうとも、生きたい、死にたくない、死なせたくない、男の温かさが欲しい、女の柔肌が恋しいという想いは人類共通のものであり、それを拠りどころとして人は相互理解へと至るのだ。

 そうしたメッセージを、およそ人が暮らす場所とは思えないラップランドのロケーション、そこに流れるひんやりとした空気、抑えた音楽、冷徹な視線で捉えるカメラといった諸要素によって、シニカルに語る映画。
 さらに、サーミ語、フィンランド語、ロシア語による会話を日本語字幕で観るというなんとも奇妙な体験が、いっそうコミュニケーションや民族間不和について考えさせるモトともなる。

 テイスト的には『ノー・マンズ・ランド』(ダニス・タノヴィッチ監督)あたりに近いだろうか。あるいは「神によって言語を分かたれた」人間のあがきを描いた『バベル』(アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ監督)にも通ずる。

 ふたりの男が反対の方向へと歩き始めたように、ひょっとすると相互理解なんて戯言なのかも知れないが、それでも僕らには可能性があるはずだ。
 大切なのは、そこで人の愚かさにあきらめず、死に背を向けて生へと向かうこと。隣にいる、何を喋っているのかわからない人の肩を叩きながら「世界は完全じゃないけれど人生はまんざらでもない」。そんなふうに笑おうじゃないか。

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