ノーカントリー
監督:ジョエル・コーエン/イーサン・コーエン
出演:トミー・リー・ジョーンズ/ハビエル・バルデム/ジョシュ・ブローリン/ウディ・ハレルソン/ケリー・マクドナルド/ギャレット・ディラハント/テス・ハーパー/ステファン・ルート/ベス・グラント
30点満点中20点=監5/話4/出4/芸3/技4
【田舎町、事件、死体、その先に】
メキシコと国境を接するテキサスの町。狩に出たルウェリンが見つけたのはメキシコ人たちの死体。どうやら麻薬の取引きがこじれ、撃ち合いになったらしい。現場から200万ドルを持ち逃げし、妻を実家へと帰し、自身も逃走の策を練るルウェリン。だが殺し屋アントン・シガーは執拗に彼を追い続け、その途上には死体が増える。いっぽう保安官のトム・ベルは、捜査に当たりながらもこの事件に深入りするつもりはないようだった。
(2007年 アメリカ)
★かなりネタバレを含みます★
【相容れない流儀を描く】
語り口が実に流暢、組み立てが素晴らしく鮮やかだ。
まったく気にも留めなかったこと(水)が「気がかりなこと」に変化し、それがストーリーを大きく動かす。あるいは観るものに「?」を与えておいてから「!」を示す。シガーによる殺しは、最初に十分見せておけば後は想像させるだけでいい、という、凄まじい構成。まさか「靴の汚れを気にするシガー」が、あんなふうに“想像のタネ”として機能するとは。
しかも、それらを極めて少ないセリフで描写し、見せてわからせる。これぞ映画の醍醐味。
そうした手法で徹底して描かれるのは、手順・ルール・価値観である。
とにかくコッテリと、1つの作業手順が映像化される。人影を双眼鏡でしばらく観察する、テント一式を買ってパイプを接続する、破いたシャツでクルマに細工する、ピンセットや注射器を用いて治療する……。通常の映画文法なら省いてしまうことも多いシーンを、これでもかと映し出す。
他人の金を奪う、人の命を奪うというマクロだけでなく、ミクロの各行為もルウェリンとシガーの流儀(行動規範)から生まれるものであり、それらをつぶさに捉えることがこの映画の流儀であると、観客に叩き込む。
この作り、「力で何とかしよう」「やりかたは俺が決める」「有無をいわさず相手にわからせてやる」という価値観が社会に蔓延っていることを伝えたかったのではないか。
野蛮で身勝手で未成熟な価値観が育まれた因は、ベトナム戦争にあるとも示唆される。あの戦争に参加し、いっちょ前を気取っているルウェリンではあるが、自分が「若い=未成熟」なのだと知らされるのだ。
理解しがたい価値観が渦巻く世の中に戸惑うのが保安官のエド・トム・ベルだ。彼はいう。「牛が相手でも何が起こるかわからない」。
彼もかつては「でも人間が相手なら、話も通じる」と考えていただろう。それが旧来の価値観だからだ。店員や受付などとの会話が意外と多く描かれるのだが、そんな、ほんの些細な誰かとの関わりが円滑におこなわれることによって社会は回る、という価値観。
ところがルウェリンと、それ以上にシガーは、あくまでも自分の流儀で突き進む。強要、特異な武器、禅問答、そして唐突な死を会話の相手に突きつける。確かに、何が起こるかわからない。
ラスト、シガーは作中で唯一の真っ当な取り引きをおこなう。ところが相手の少年たちは、シャツを着ているか着ていないかで諍いあう。そこにもまた彼らだけのルールや価値観があるのだ。
あらゆる流儀が等しくこの地に根づいていることを、たびたび画面に大きく収められる「大地」が物語る。音楽を抑え、鼻息を拾い上げ、セットではなくロケを中心に撮影し、銃創までリアルに再現することで、さまざまな流儀や価値観の実在感も増していく。
原題『NO COUNTRY FOR OLD MEN』を訳せば「爺さまどもに居場所はない」といったところか。
老保安官の目の前には「そんなことをしでかすはずのない人物が作った事件」と、あり得ないほどの死体の山が積み重なっていく。既存の価値観では量れない、独自ルールで事態を乗り切っていこうとする人たちの存在に戸惑って、もはや自分の流儀では世の中に関われないことを知って、彼は白旗を揚げるのだ。
序盤、保安官が説明役を担い、何とか新しい価値観を自分自身に理解させようと務めている姿が印象深い。そんなトミー・リーがキャスト・クレジットのトップに来ていること、そして原題からも、本作が「新しい流儀の誕生によってフェードアウトしていく古きもの」への惜別のための映画であることがわかる。
怖い怖いと評判のアントン・シガーことハビエル・バルデム。でも、それほど怖くはない。たぶん私も、こういう不気味な存在を受け入れられるくらいに、新しい流儀の世の中に毒されているのだろう。
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