ティファニーで朝食を
監督:ブレイク・エドワーズ
出演:オードリー・ヘプバーン/ジョージ・ペパード/パトリシア・ニール/バディ・イブセン/マーティン・バルサム/ホセ・ルイス・デ・ヴィラロンガ/ジョン・マクギヴァー/アラン・リード/ドロシー・ホイットニー/オランジー(猫)/ミッキー・ルーニー
30点満点中17点=監3/話3/出4/芸4/技3
【ニューヨーク、孤独が棲む街】
ブルーな気分なんて問題じゃない。でもレッドな気分を振り払うには、ティファニーのショー・ウィンドウの前で朝食を食べるしかない……。弟が除隊となる日を待ちながら、NYのアパートで暮らすホリー。同居するのは名なしの猫。夜ごと異なる金持ちと遊び、投獄中の会計士の話相手となって金を稼ぐ毎日だ。下の階に越してきた作家のポールは彼女の身を心配するが、彼もまた夫を持つインテリア・デザイナーとの関係を断ち切れないでいた。
(1961年 アメリカ)
【何者でもない人の物語】
ひたすらにオードリーが美しい。寝ぼけまなこ、ドレスに着替えて洗面所からポンと出てくるタイミング、歌声と見上げる視線……。その儚げなたたずまいに、ヘンリー・マンシーニによる名曲『ムーン・リバー』の哀愁に満ちたメロディがこれ以上なくピタリと決まる。
でも、彼女が演じるホリーは、何者でもない。何者かになることを恐れているかのように、ただ誰かの従属物になることを望んでいる。
これまでにも主役が“何者でもない”という映画はあったが、ここまで徹底している作品は初めてかも知れない。なにしろホリーは偽名を使い、これといって向上心も持たず、こんな私だから猫に名前は付けないのと、自分が何者でもないことを自覚すらしている。
そして、何者でもないものをそっくり受け止めてくれるティファニーを心の拠りどころとして生きるのだ。
雑多な民族が暮らすニューヨーク、ユニヨシ氏をはじめとするさまざまな人が集まるアパートで、ホリーの存在はクッキリと浮かび上がり、あるいは沈むのだけれど、彼女が“実は何者でもない”ことを感じ取っているのは、同じように何者でもないポールだけである。
だからこそ彼は、ありのままの彼女を受け止めることができるのだ。
誰もがやや雄弁で、展開を会話・セリフに頼る部分が多いのは小説が原作であるがゆえだろう。ただ、階段を利用した見上げ・見下ろしなど空間を立体的に描く配慮が施されており、セットであるはずなのに「アパートの部屋の中にカメラが入り込む」という距離感・絵作りになっていて(つまり、カメラの後ろにズラリとスタッフが並んでいるように感じさせない)感心させられる。
で、思ったのだが「都会で暮らす男女の自分探しストーリー」といい、オシャレでないものが登場しないことといい、これって元祖トレンディ・ドラマといえる作品じゃないだろうか。
舞台は東京、兵役をマグロ漁船にし、一昔前なら山口智子、いまなら米倉涼子か麻生久美子か仲間由紀恵か、ブラジルをイタリアに置き換えて、じゅうぶん作れそうだなぁと思ったり。
もっとも東京にはティファニー本店のように、何者でもないものをそっくり受け止めてくれる空間はないのだけれど。
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