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2008/08/03

告発のとき

監督:ポール・ハギス
出演:トミー・リー・ジョーンズ/シャーリーズ・セロン/ジェイソン・パトリック/ジェームズ・フランコ/バリー・コービン/ジョシュ・ブローリン/フランシス・フィッシャー/ウェス・チャサム/ジェイク・マクラフリン/メカッド・ブルックス/ジョナサン・タッカー/ウェイン・デュヴァル/ヴィクター・ウルフ/ブレント・ブリスコー/スーザン・サランドン

30点満点中22点=監4/話5/出5/芸4/技4

【ダビデは怖くなかったのだろうか】
 イラクから帰還したばかりの兵士マイク・ディアフィールドが、無許可で軍を離れた。その父で自身も元軍人だったハンクは単身基地へと乗り込み、マイクの携帯電話を持ち出すと、そこに残されていた電話番号や戦地で撮影された映像ファイルを手がかりに、息子の行方を追う。いっぽう基地の近くで切断された焼死体が発見される。警察は「軍の管轄」として捜査を打ち切るが、エミリー刑事はハンクと協力してこの事件を探ろうとするのだった。
(2007年 アメリカ)

【僕らが暮らす、この異常な世界】
 殺人者と、殺人者を何万人も作り出した人間と、その人間を支持する人々と、いったい誰の罪がもっとも重いのだろうか?
 相変わらずポール・ハギスは、重く苦しいテーマを鮮やかに1本の映画へと昇華させてみせる。『クラッシュ』では人種差別を扱ったが、今回は戦争に起因するPTSD。
 ただしベトナムやイラクといった戦争・戦地と個のレベルで接するアメリカだけの問題としてではなく、人類が抱える普遍的な“業”や不安を、ダビデ王の例を引き合いに出して突きつける作品。

 印象的なのは、画面の冷たい色合い。モノトーンに近い浅い色調は、苦しむハンクや兵士たちを突き放しているように思える。彼らの住む世界(それはもちろん作り手や僕ら観客が住む世界でもある)が、すでに夢のない色褪せたものであると告げるようだ。

 撮りかたは、妥当かつ繊細。「このカット/シーンは、こういうことをいいたいがために用意されたもの。だから、こちらからこう撮り、これだけの長さが必要」という理知的な作りが徹底されている。それはもう、芸術的なまでの収まりのよさ。そこにマーク・アイシャムの静謐たる音楽が乗っかることで、さらに映画としての“格”が高まる。

 その風格の中で繰り広げられる物語は、展開やセリフからは無駄が削ぎ落とされ、けれど必要なことは不足なく盛り込まれて、ただの“光景”が後になって意味のある“出来事”へと転じる見事な構成力も示す。

 演技陣の“格”もまた、素晴らしい。
 ただ黙って視線を漂わせるだけなのに、言葉より雄弁に心理を表現してしまうトミー・リー。
 セリフとしては書かれていない「男社会で生きることの過酷さ」までも体現するシャーリーズ・セロンの立ち姿。
 極みは、スーザン・サランドン。あの“対面”シーンの圧倒的な演技と消えてなくなりそうな背中は、もうそれだけで、この人がこの映画に欠かせないキャストだったのだと感じさせる。
 彼らに引っ張られてか、若い役者たちも自嘲的なセリフ回しで兵卒の悲しい現実をしっかりと伝えてくれる。

 極上の作り手と演技陣によって提示されるのは、まずは“静かな異常性”とでも呼ぶべき状況だ。
 徹底して几帳面かつ潔癖なハンクの様子、戦地でなお明るい子どもたち、平和な世界に蔓延る乱れた性、繰り返される「人を殺すことを正当化するための演説」、そして衝動的な殺人……。
 自堕落に、たいした罪も冒険も犯さず安穏と暮らす僕らにとって、それらすべては異様なものに感じられる。たぶん彼の地の人々にとっても同様で、周囲の状況すべてを「そういうものだ」とは納得していないだろう。ただ、その世界で生きていかざるを得ない悲しみを、僕らより強く抱えていることは間違いない。

 そして、そんな世界を作り出してしまった親たちの悔恨。すべてのハンク世代はすべてのイラク兵士たちの親であるはずなのに、かつてと同じ過ちを繰り返し、過ちを過ちだと認識すらしない社会を生み出したことに対する、大いなる痛みと、子どもたちへの謝罪。
 あるいは、この曖昧な世界に子どもを投げ出す親の不安が、息子と添い寝するエミリー刑事の姿からあふれる……。

 日本を、豊かで安全な国と感じる人も世界には多いはずだ。けれど僕らも僕らなりの異常を抱えた社会で暮らし、そのことに不安を覚えている。恐らくどこに線を引いても、万人が納得する「あちらが異常、こちらは正常」という区分けはできないだろう。
 もちろん、殺人者と、殺人者を何万人も作り出した人間と、その人間を支持する人々と、いったい誰の罪がもっとも重いのだろうと悩む世界を正常とはいえない。が、異常へと至る菌のようなものはそれぞれの土地に存在し、ひっそりと社会を蝕んでいき、いずれ「そういうものだ」と認めざるを得ない状況へと達するものなのかも知れない。
 事実、僕はもうそろそろ「なぜ若者は無差別殺人に走るのか?」などと考えることはやめ、「そういう国・時代なのだ」と考え始めている。

 僕らの国には世界に助けを求める術がないことに絶望感を味わう。が、どうせ誰も助けてなんかくれない。だって人類すべてが、本当は「異常だ」と感じている状況に取り囲まれて、1つ1つのモノゴトを正常とも異常とも認めず、脱却することもできず、ただ子どもらに許しを請いながら境界線の曖昧な世界で生きていかざるを得ない悲しみの中にいるのだから。

 たぶん一生、ポール・ハギスの作品が公開されるたびに映画館へと足を運ぶだろう。この人が撮る映画は、ホントに隙というものがなく、素晴らしく完成度が高い。彼の作品が示してくれる「映画としての完成度の高さ」さえあれば、絶望を忘れられる。
 そんな価値観は、異常だろうか、逃避だろうか?

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