ツォツィ
監督:ギャヴィン・フッド
出演:プレスリー・チュエニヤハエ/テリー・フェト/ケネス・ンコシ/モツシ・マッハーノ/ゼンゾ・ンゴーベ/ラクァラナ・セイフェモ/ナムビサ・ムパムルワナ/イアン・ロバーツ/センビ・ンヤンデニ/ZOLA
30点満点中19点=監4/話4/出4/芸3/技4
【その出会いが、彼にもたらしたもの】
南アフリカ、ヨハネスブルクのスラム。ツォツィ(不良)と呼ばれる少年は今夜も、仲間のアープやボストン、ブッチャーらと街へ繰り出し、金を奪って酒を飲む。ある日、高級住宅地で暮らす婦人から車を強奪したツォツィだったが、後部座席で泣く赤ん坊を見て戸惑う。思わず抱きかかえ、棲み家へと連れ帰るツォツィ。おむつを取り替え、ミリアムを脅して母乳を与えさせ、そうしているうちにツォツィの中には、何かが芽生え始めるのだった。
(2005年 南アフリカ/イギリス)
★ややネタバレを含みます★
【decencyを持たない、僕らへ向けた映画】
未成年者による殺人シーンがあるためR-15指定となった映画。いやむしろ15歳以下推奨とし、人間社会が塗り重ねてきた失敗と罪を学んでもらうべきだと思うのだが。
アパルトヘイト施策当時を舞台とする原作を現代に置き換えて映画化したらしく、いまなお人種隔離政策の“ツケ”が南アフリカには残っていることを示す作品として受け取られているようだが、同時に「建前上、人種差別のない国」でも起こりうる出来事を描いているともいえる。
つまり、だから大人たちは、自国のツォツィたちをいたずらに刺激しないよう、スクリーンから遠ざける措置を取ったのだろうか。
そう、刺激するのだ。意外なほど“カッコよく”仕上げられている。ラップが流れる中、凶器を手に、街へ繰り出す少年たち。ゴミゴミとしたスラムを背景としながらも、スタイリッシュに、カッチリと、彼らの無軌道ぶりや憔悴の日々が切り取られる。
全体に「観てわからせる、考えさせる」という撮りかたが貫かれていて、特にオープニングのサイコロ賭博から強盗、酒場へと至る流れ、さらにはミリアムの笑顔によって示されるYESなど、過剰なセリフを排しつつも「彼らがどんな連中か」を上手に描く場面が多い。回想の盛り込みかたもスマートだ。
内容以前に、映画としてのデキがいい、「どう撮るか」の点で優れているため、観るものを自然と刺激するのである。
もちろん「何を撮るか」、すなわち内容的にも十分に自分の中で消化し、整理しなければならないほど濃密なものとなっている。
作品のキーワードとなっているdecencyを辞書で引いてみると「見苦しくないこと/品位/行儀正しさ/礼儀・作法」などとあり、最後に「人間らしい生活に必要なもの」とある。
それは決して、モノではない。カネでもない。見苦しくない容姿や、形式だけの礼儀でもない。ただツォツィは自分の中で考えをまとめられず、恐らく「そもそも人は、なぜ生きるのか」というところまで立ち戻ってdecencyについて自問を繰り返していたことだろう。
が、そんな疑問を吹き飛ばしてしまうほど強力なものがある。赤ん坊の泣き声だ。もうそれには、「人間らしい」とかどうとか関係なく、生き物として逆らえない。
だから思わず、赤ん坊を抱きかかえてしまう。でもいまだに答えを出せないツォツィは、ミルクや哺乳瓶を用意して親であることを示そうとする。そんなものはカタチ・枠組に過ぎないのに。「人間らしさ」を枠組で捉えようとすることは、アパルトヘイト的な考え、decencyとかけ離れたやりかただというのに。
ツォツィは、やがて気づく。自分の行為が、ヒューム管で暮らす子どもたちからツォツィ自身、そして歩けない男(あるいは飲んだくれる父)へと続く「decencyのない生きかた」の連鎖に、ある意味では「decencyなど必要としない社会」に、赤ん坊を引き込むものだということに。
赤ん坊の泣き声がパワーを持つのは、そこに「無限の未来」が潜んでいるからなのだ。
赤ん坊だけではない。無限の未来はツォツィにだってある。「なぜ生きるのか」という問いを吹き飛ばしてしまう赤ん坊の泣き声だけれど、その純粋さを守るためには、やっぱり「なぜ」を考えなければならない。そう感じ始めたツォツィだから、なおさら、未来の可能性は広がったはずだ。
恐らくラストでは誰もが「頼む、ツォツィを撃たないで」と祈ったことだろう。それは、decencyを持たない僕たちが、僕たち自身の未来に対して救いを求める祈りでもある。
ツォツィは、もういちど生まれる。僕たち自身にもまだ救われる可能性が残されている、そう示されたような気がして、涙する。
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