カポーティ
監督:ベネット・ミラー
出演:フィリップ・シーモア・ホフマン/キャサリン・キーナー/クリフトン・コリンズ・Jr./クリス・クーパー/ブルース・グリーンウッド/ボブ・バラバン/エイミー・ライアン/マーク・ペルグリノ
30点満点中17点=監4/話2/出4/芸3/技4
【事件を追う作家、その心の中】
1959年11月、カンザスの農家で一家四人が何者かに惨殺される。この事件に興味を持った作家トルーマン・カポーティは、助手のネル・ハーパーとともにリサーチを開始。フィクションとノンフィクションを結ぶ「まったく新しい作品になる」と、捜査責任者アルヴィンらの協力を得ながら、逮捕された容疑者ペリー・スミスへのインタビューなど取材を進めるカポーティ。判決が下され、ペリーの処刑が近づく中で、カポーティは……。
(2005年 アメリカ)
【人を描き、みせて、想像させる映画】
省略の妙というか、語り口のリズムが極めて優れている映画だ。
たとえばカポーティの大荷物の中身は、着替えの洋服であることがサラリと示される。ペリーが描いたカポーティの肖像からは、ペリーがこの作家に寄せる想いと「この絵を新刊の著者近影に」という意図が汲み取れる。
抜群なのが各シーンの構成と次のシーンへの移行。本来なら1~10ある出来事や言動のうち、半分だけを見せ、かつ最後の10の部分を割愛して次の場面へと移る。それが独特の間合いと力強いリズムを生み、削られた部分を読み取って想像させる作りとなっているのだ。
当然、読み取りと想像の対象となる最大のものはカポーティの心情だ。なぜこの事件に興味を抱いたのか、ペリーに対してどのような気持ちを抱いているのか、この『冷血』という作品をどうしたいのか。それらを観るものに考えさせる作品。
事件の究明ストーリーになることを極力避け、逆にカポーティの直近だけで話を進め、カポーティの表情を追い続ける。事件ではなくカポーティという人を描くことに徹する。照明・画面の色合い・音響ともに“その場感”を大切にして、観客を彼のそばに居続けさせる。タイトルをズバリ『カポーティ』としたことからも、本作のベクトルはうかがえるだろう。
恐らく彼は、“死”というものをずっと考え続けているのではないか。
死とは孤独、あるいは終焉。孤独・終焉とは、耐え難い恐怖。その恐怖を忘れたり癒したりしたいがために、彼はくだらない話を続け、書き続けるのだろう。まるで、そうやって恐怖を払拭することが、自分自身の存在証明であるかのように。
常に無表情を装う彼が、判決の場面でだけうろたえる。処刑執行が近づくにつれ、ふさぎこむようになる。それはペリーに対する感情移入や優しさからではないはずだ。彼が死=“ものごとの終わり”を何よりも忌み嫌っていて、それに直面したとき、どう行動すればわからないのだ。
いっぽうで、ものごとの終わりに対する屈折した憧れも彼は持つ。満足できない自分の生にお別れしたいと感じている。だから、ペリーを救うこともしない。が、そんな自分自身に、また嫌気が差す。
彼の心の動きを、オスカーに輝いたフィリップ・シーモア・ホフマンがじっくりと見せてくれる。
読み取りのためのヒントがかなり少なく、そのため、ただでさえ暗い物語がなおさら内向的になりすぎた感もあるが、みせて、想像させる、そんな映画ではあるだろう。
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