マリー・アントワネット
監督:ソフィア・コッポラ
出演:キルステン・ダンスト/ジェイソン・シュワルツマン/リップ・トーン/ローズ・バーン/ジュディ・デイヴィス/アーシア・アルジェント/モリー・シャノン/シャーリー・ヘンダーソン/ジェイミー・ドーナン/ダニー・ヒューストン/マリアンヌ・フェイスフル
30点満点中18点=監4/話4/出4/芸4/技2
【広大な宮殿、ひとりの王妃】
14歳でオーストリア・ハプスブルグ家からフランス王太子ルイ16世のもとへ嫁ぐこととなったマリー・アントワネット。豪華な服や料理、愉快な友人や宴、スウェーデン軍人フェルゼンとの逢瀬など、ベルサイユ宮殿で楽しい時間に囲まれながらも、しきたりと、世継ぎが生まれないこと、それに対する貴族たちの噂話が、次第に王妃を息苦しくさせていく。やがて夫は即位するが、歴史の大波が刻一刻とフランスに押し寄せようとしていた。
(2006年 日本/フランス/アメリカ)
【いまも社会を支配するもの】
ニギヤカにロックで開幕。以後も盛んに、テクノなど現代風のBGMが使われる。ハンディ・カメラが多用され、しかも人物の直近で表情や出来事を捉える。ドキュメンタリー・タッチというよりホーム・ビデオのノリだ。オーストリア人もフランス人もスウェーデン人もみな英語で喋る。
その中心にいるのはキルステン・ダンスト。優雅な身のこなしの中世貴族と愛くるしい21世紀の若者、2つの演技を自在に行き来する。
そうして示されるのは、当時と現代との“つながり”、なんら差などないという事実だ。
くだらないシステムと馬鹿げた儀式とアホらしい価値観によって社会は支配され、無知と身勝手と悲哀がはびこり、やがて人々は刹那的な享楽へと走る。それって僕らが生きている現代にも、しっかり残されている“世の成り立ち”ではないだろうか。
もしこの映画に「いかにも」なセットが持ち込まれれば、「これが貴族たちの日常」という空気も薄まり、当時と現代との連続性・忌むべき不変性も薄められてしまう。だからこそホンモノの宮殿が必要だったのだろう。
印象的なのは、いわゆる平民がまったく登場しないこと。ようやく現れたかと思えば、暗がりの中、だれもハッキリとは顔をうつされぬまま。社会システムを動かしている(つもりになっている)側にとって、民衆は「個」として認識されていないのだ。
とはいえ彼らがマリーの首を刎ね落としても、社会はなんら変わらなかった。つまり、あちら側とこちら側、隔絶した世界のように思えて、結局は同じようにくだらないシステムと馬鹿げた儀式とアホらしい価値観によって社会は支配されていて、“ひとりの女性”は哀しみ続けるのである。
それでも、そんな社会に救いや真実を見出すなら「変革への期待」「次世代への希望」ということになるのだろう。
出産シーンでのマリーの晴れ晴れとした笑顔と、あわてて自ら窓を開けるルイの姿が教えてくれる。子どもとは無条件な愛情の対象。と同時に「もっといい世の中にする、そのための機会」。あるいは「新しい時代を作ってくれる存在」であることを。
現代の施政者たちは、この映画を観てどんな感想を残すのだろう。少なくとも、衣装や美術に対する感嘆しか口にできない輩は、それこそイスから引きずりおろされるべきだ。
もちろん、当時と現代の同一性を認識せず「貴族による国政と違い、われわれが作り上げてきた民主主義ではなんぴとたりとも個人が犠牲にされることはない」などと戯れ言を吐く者も。
これは、マリー・アントワネットが生きた日々を描いた映画であるだけでなく、「当時は……」という物語でもなく、現代のわれわれを取り囲む世界そのもののお話である。
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