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2008/10/23

クィーン

監督:スティーヴン・フリアーズ
出演:ヘレン・ミレン/ジェームズ・クロムウェル/アレックス・ジェニングス/ロジャー・アラム/シルヴィア・シムズ/ティム・マクマラン/マイケル・シーン/ヘレン・マックロリー/マーク・バゼリー

30点満点中18点=監4/話4/出4/芸3/技3

【悩める女王】
 1997年、夏。革新を掲げるトニー・ブレアが首相に就任したばかりの英国で、新たな問題が発生する。ダイアナ元皇太子妃、パリにて事故死。世界的な人気を得ていたダイアナの死を国民は大いに悼み、世論は国葬を望んだが、時の女王エリザベス2世はあくまでダイアナを「王室を出た人間」としてコメントすら発表しなかった。王室への風当たりは強まり、側近やブレア、チャールズ皇太子らはそれぞれの思惑で女王に助言するのだが……。
(2006年 イギリス/フランス/イタリア)

【あなたの軽さを非難する】
 競馬ファンで、『Wii Sports』を遊ぶ。もうそれだけで現実のこの人を全面的に支持したくなるのだが、本作でも「まだ動くのよ」と古いクルマを乗り回したり洋服でメガネの汚れを拭ったりと飄々の一面をのぞかせ、かと思えば凛と責務を果たす姿を見せる。偉大なる女王陛下。
 そして、陛下の言は一貫して正論である。

 いっぽうでトニー・ブレアの言葉もまた正論だろう。完全な反論・対立ではなく“助言”として女王に寄せられる彼の言葉は、その穏やかさゆえに女王を苦しめる。それをブレア自身も承知しているが、女王が女王である限りきっちりと受け止めてくださるという信頼感も持っていたはずだ。だからこそ陛下を称えつつ、彼もまた正々堂々と職務をまっとうするのである。

 女王に対するブレアの心情と同様、オスカー獲得のヘレン・ミレンに対するブレア役=マイケル・シーンも、安心してぶつかっているようだ。そういうことが感じられる両者の演技。

 民衆の声はどうか? こちらは箱(ブラウン管)の中の戯言に過ぎない、という扱われかた。「セレブリティ」の本当の意味を知らない人たちの雑言なのだから、それも当然だ。
 そもそも「誰がダイアナを殺したか?」と考察したとき、英国王室のシステムか、チャールズ個人か、パパラッチか、彼らを雇うマスコミか、いろいろと意見はあがるだろうが、「ダイアナに花を手向ける人たち」と「ダイアナを殺した人たち」もイコールで結ばれるはずだ。
 キャスターは「国民は、悲しみを誰かにぶつけようとして王室を叩く」と述べるが、いやそれは、自らダイアナを死に追いやったことに耐えられず責任転嫁をしているだけではないか、と思える。

 作り手にもそのような想いがあったはず。そう感じられるほど女王に好意的で、いわば“反大衆”の意味合いを持つ、この作品。美しく偉大なるものの死を静かに見守る女王の姿が描かれていることからも、本作がどちら側に立つのかは明らかだ。ただし過剰な思い入れは避け、女王の心情をゆっくりとすくい上げていくことに徹する。

 国にすべてを捧げた者と、もっと差し出せと迫る国民、という女王ならではの立場に起因する苦悩とともに見逃せないのは、より普遍的な、社会に生きる人間に共通した“対立の種”が盛り込まれている点だ。
 なんだ、アイツ……。そういう些細な“好き嫌い”から軋轢が生まれ、最初は小さな「アナタとワタシとのズレ」がやがて取り返しのつかない事態を引き起こしてしまう。そんな、人間世界を成り立たせていくうえでの難しさについても言及されている。

 と、いろいろ考えさせられる、重みのある物語が記録映像を交えながら展開していくのだが、作りとしては意外と軽い。実録モノ・歴史モノというよりファミリードラマ、そのままコメディへなだれ込んでもおかしくないようなタッチだ。
 その軽さは、人ひとりの死も数百年続く伝統も等しく軽く捉えてしまう民衆を揶揄するものに思えるのだが、どうだろうか。

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