ブラインドネス
監督:フェルナンド・メイレレス
出演:ジュリアン・ムーア/マーク・ラファロ/アリシー・ブラガ/伊勢谷友介/木村佳乃/ドン・マッケラー/ミッチェル・ナイ/モーリー・チェイキン/ダニー・グローヴァー/ガエル・ガルシア・ベルナル
30点満点中18点=監3/話3/出4/芸4/技4
【眼に満ちる光、失明した人々】
運転中、突如として眼の中に光が広がり、失明した日本人男性。やがて彼を診た眼科医、その患者である娼婦や少年、日本人の妻、日本人の車を盗んだ男……と、失明は次々と感染していく。政府は発症者をかつて精神病院だった建物に隔離、情報も治療も看護師も十分な食料も与えられないまま、患者たちは強制収容所のような生活を強いられることになる。だが、そこにはひとり、目の見える人物=医師の妻が紛れ込んでいた。
(2008年 カナダ/ブラジル/日本)
【愚者たちの醜さ、賢者たちの身勝手さ】
舞台は大半が閉鎖された病棟の中、医師の妻をはじめとする少数の人物たちにより物語のほとんどが進む。このまま世界中の人たちが失明したら、という(たとえば『トゥモロー・ワールド』にあったような)ホモ・サピエンスとしての絶望感は意外と希薄で、かなりクローズド/パーソナルな、ひょっとすると舞台劇に向く小さなストーリーといえるかも知れない。
が、それを、精一杯映画的に仕上げてみせる。
褪せた色調、逆光、ハレーション、闇、ブレるフォーカス、一人称視点などを駆使して作られる“観づらい”画面。
サラウンドを生かした立体的なサウンドトラック。さらには画面の外に音源を置いていま何が周囲でおこなわれているのかを想像させたり、小さな音まで拾い上げてみたり。
身近な地獄としての隔離病棟や、荒廃した世界の再現力も見事だ。
つまり監督のメイレレスの指揮のもと、撮影(『シティ・オブ・ゴッド』や『ナイロビの蜂』と同じセザール・シャローン)、音楽、音響デザイン、プロダクション・デザインなどが一丸となって、失明した人たちと医師の妻が直面する出来事を観客が追体験するような作りとなっているわけだ。
とはいえ、さすがに全編をホワイトアウトで押し通すわけにもいかず、観客を「見える側」に置いていることは確か。失明に対する恐怖、その後の世界に対する嫌悪を抱かせながら、医師の妻とともに隔離病棟内を生きる映画といえるだろう。
その医師の妻=ジュリアン・ムーアが発する強さと焦燥を感じつつ、目にするのは医師役マーク・ラファロや最初の患者・伊勢谷友介の無力感、娼婦アリシー・ブラガの優しさ、日本人の妻・木村佳乃や泥棒ドン・マッケラーの厭世観、少年ミッチェル・ナイの無表情、アイパッチのダニー・グローヴァーが漂わせる達観、あるいはノーマル盲目者モーリー・チェイキンや王様ガエル・ガルシア・ベルナルによる暴力……。
達者な出演者が表現する、強者としての目の見える人々と弱者としての失明者たちの様子、弱者の中にも搾取する側とされる側が生まれていく様子、見えないからこそ犯す罪、見えているからこそ犯さざるを得ない罪……などを指を噛んで見守る映画、ともいえる。
が、これって現実の世界そのもの、別に感染性失明症がはびこらなくともすでに社会は“このまんま”じゃないか、と気づく。
先を見通せる力があると自負している人たち=賢者の導きにより、何も見えない人たち=愚者がヨロヨロと歩く、そんな仕組みで世の中は成立し、賢者に歯向かえない愚者は愚者どうしで奪いあい傷つけあう。
たとえ賢者を気取っていようと、すぐさま愚者へと貶められる社会でもある。かなりいい暮らしをしているように見える医師夫妻や日本人夫妻も、泥棒らと同じ生物的レベルにいるのだ。
ここでは倫理感や論理的思考など不要。「そうしなければ生き残れない」という価値観だけが行動を決めていく。野蛮で原始的ではあるが、それが実際の世の成り立ち。
そして愚者は、ラジオから流れる音楽や急に降り出した雨、頬を暖める焚き火や想い出話といった小さな悦びに、人間性を求める。
賢者は、わたしがいなければ何もできない、いやしょせん自分には何もできない、もはや自分は望まれていない、次に愚者へと貶められるのは自分かも知れない……という、身勝手な満足感と絶望と恐怖に苛まれる。
鑑賞直後には希望を感じたラストシーンだが、あるいは「結局お前たちは賢者のつもりでいようと愚者であろうと、極限状況に追い込まれないと“周囲が見えない”生き物なんだよ」と、突きつける映画なのかも知れない。
見えないという状況をもっと生かせただろう、少々突っ込み不足かも、と思わないでもないので、完成度はまだまだ上げられたはず。ただ、だからといってこれ以上風呂敷を広げても、テーマ性は薄くなっただろう。
いっそ本当に舞台として作り直してみてはどうか。通常の芝居と、照明を完全に落として暗闇の中、音だけで進行するパートを1幕ずつ交互に展開させたりとか。
そうやって、より多くのことを観客に考えさせる。本作じたいが、そうであるように。
つまり想像力というか、人と人との関係における(見えるものも見えないものも含めて)大切なもの、それを察知できる能力はいまの私にあるかどうかと、思考を強いる作品である。
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