キサラギ
監督:佐藤祐市
出演:小栗旬/ユースケ・サンタマリア/小出恵介/塚地武雅/香川照之
30点満点中18点=監3/話4/出4/芸3/技4
【みんなが愛したアイドル、その死の真相は!?】
アイドル・如月ミキの一周忌追悼会に集まったのは、ファン・サイトを運営する“家元”、クールな“オダ・ユージ”、口数の多い“スネーク”、わざわざ福島から上京してきた“安男”、そして“いちご娘”。いまは亡き如月ミキについての想い出を語り合う5人だったが、1つの疑惑から事態は大きく動き始める。「本当に彼女の死は、自殺だったのか?」。やがて次々と明かされる、如月ミキと彼らとのつながり。果たして真相は……!?
(2007年 日本)
★ややネタバレを含みます★
【ちゃんとしたベクトルのある映画】
やばっ。これって泣ける映画だったのか。
愛情とひたむきさ、独占欲と優越感とがブレンドされた“ファン心理”の重さやら滑稽さやらを、グリグリと突きつけてくる。
誰かを愛する。その代償を受け取りたい。近づきたい。たとえば「垢抜けないプロポーション」という、その人だけが放つ魅力を自分だけが気づいたものとして大切にしたい。その強い願いが、相手にとってマイナスに作用するものだとしても……。
そんな捻じれた想いは、ただ売れないアイドルとファンとの間にあるだけのものではなく、実社会の人間関係にもあるイビツな愛。そこへグイグイと踏み込んでくる。
軽く仕上げながら、侮れない内容だ。
舞台向きであることは確かだろう。閉じられた部屋に漂うこの緊張感は、生身の役者(前々から香川照之と小出恵介は指折りの「上手い役者」だと思っている)と時空間を共有できる舞台劇でこそ、より強く肌で味わうことができるものであるはずだ。
また『笑の大学』で三谷作品の映像化について述べた際にも触れたが、そこにないものの視覚化や空間的飛躍が難しい舞台向けシナリオでは、「見せなくっても観客の想像力を喚起すればいい」という面白さが詰め込まれていることも多い。本作でもそうした部分はあるのだが、わざわざ無理に視覚化してしまう、という愚が見られた。
ストーカー行為、ラッキーチャッピーのボトル、モヒカン、デブッチャ、炎の中のミキ、そしてなにより如月ミキ本体などは、映画でも「観客の想像力に訴えかける」だけでよかったのではないだろうか(ラストの宍戸錠だってやりすぎだろう)。
それでも本作に好感を覚えるのは、その他の部分では舞台向けシナリオを映画化するにあたっての“義理”を果たしているように感じられるからだ。
ほぼリアルタイムで進むストーリー。その流れのよさを殺さないよう、カット割とつなぎかたにはずいぶん気をつかっている。ここがマズイと「あ、いまの表情、いまのセリフは別に撮ったのをつないだな」と浮いてしまうものだが、音やセリフがカットをまたいだりして、上手く“流れ”をキープしていた。編集は『サマータイムマシン・ブルース』でも軽快かつトボけた味わいの“間”を作り出した田口拓也。この人だけの手柄ではないだろうが、いるべきところにちゃんとしたスタッフがいた、ということはいえる。
そしてクライマックス付近、小栗旬のアップ。正直なところ中盤までは芝居クサさもあったのだが、ここでキチンと「愛情と身勝手さが同居する複雑なファン心理」を表現してみせた。それをすくい上げる撮りかたもいい。
表情・芝居を適確にキャッチして観客に届けるのは、まさしく映画ならではの作業。ついでに客席へ向けて流星を飛ばすことで、ファンが望む「身勝手な僕らにも応えてくれるアイドルの存在」を感じさせて、本作のテーマを強く訴えかけるシーンに仕上げた。ここの処理も映画だからこそできたものだろう。
つまり、映画にした意味のある作品だったわけだ。
この監督の『シムソンズ』は15分でギブアップ。でも、ちゃんとしたシナリオがあって、ちゃんとした役者がいて、どう撮って何を伝えるかというベクトルがハッキリしていれば、ちゃんとした映画を作れるのだな。
すべてのアイドルが幸せであり、その幸せが、彼ら彼女らを支えるファンとともにありますように。
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