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2008/12/08

羅生門

監督:黒澤明
出演:三船敏郎/京マチ子/森雅之/志村喬/千秋実/上田吉二郎/加東大介/本間文子

30点満点中17点=監4/話2/出4/芸4/技3

【盗賊、女、男、誰の言葉が真実なのか?】
 都の近くの山深い場所、藪の中で男の死体が発見される。やがて男の馬や弓を持った盗賊・多襄丸が捕らえられ「男が連れていた女を奪うため、俺が殺した」と自白した。が、現場から逃げた女は検非違使の調べに対して「私が夫を殺した」と涙を流す。食い違う話。さらに巫女によって被害者が冥界から呼び出されたが、その話も先のふたりとはまったく異なっていた。いったい誰が真実を語り、誰が嘘をいっているのか?
(1950年 日本)

【楽しむより、考える映画】
 アイディアとしては興味深いのだが、90分でもちょっと長いなという感覚がある。
 時代を現代に置き換えて、取調室で自白する男、教会か病院でカウンセラーに話す女、被害者が「真相を残すために」と死の間際に録音したテープ、3つを平行して描き、羅生門に集った3人の男ではなく観客に解釈を委ねるという作劇で、いいリメイクができるんじゃないだろうか。
 というか、もしリメイクされるなら、50年以上も前の本作よりスリリングでミステリアスなものにならないとおかしい。現代の観客は『ユージュアル・サスペクツ』なんていう傑作を提示されているのだから。

 まぁリメイク云々はともかく、芥川の原作そのものが短編小説として完成しているのは当然のこと。それを、何でもかんでも力ずくで手に入れようとする権力・暴力や嘘にまみれた社会に対する揶揄、または「世の中、何が真実なんだかわからない」というテーマ性はそのままに、かっちりとまとめてあるとは思う。
 が、“杣売が見た真実”を加えてあるのが、ちょっと余計な気がする。

 多襄丸は自らの悪名・勇名をさらに高めるために嘘をついた、と解釈することができる。
 女はもともと夫に愛情を抱いておらず、この事件にあたっても蔑まれたように感じたのは事実。で、「復讐のために自分が殺した」ということにしたかった。そのうえで同情を誘いたいがための嘘、あるいは演技。
 殺された男は体面を保つためと女を貶めるために嘘をつく。
 そういう考えに立つと“杣売が見た真実”がどうにも邪魔なのだ。第三者の視点抜きで「悩みを楽しむ」、そんな味わいを残してくれておいてもよかったんじゃないだろうか。たとえば『アンダー・サスピション』のように。間違っても『ダウト』だとか『真実の行方』にしちゃいけない。

 とはいえ「50年以上も前の本作よりスリリングでミステリアスなもの」が簡単にできるとも思えないわけで。
 多重回想という構造、影と音楽とで表現される風、縦横無尽のカメラワークと奥行き表現にこだわったアクション&構図でたった3つの舞台(山中と羅生門とお白州)を立体的に描き出したところ、羅生門の美術造形、そして何より京マチ子の凄まじいファム・ファタールぶり……と、ちょっとやそっとで追い越すどころか真似することすら難しい要素に満ちている

 ある意味、純粋にサスペンスまたは嘘をテーマとした物語映画として楽しむというよりも、ここがスゴイ、ここはこう進化させたいなどと、リメイクのネタや作劇と演出についての教科書として用いるべき作品なのかも知れない。

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コメント

う~~~む。
本作の最も大切な要素を『邪魔』と言われては、天国の黒沢監督も頭を抱えることだろう・・・

投稿: のん | 2009/10/29 03:15

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