英国王 給仕人に乾杯!
監督:イジー・メンツェル
出演:イヴァン・バルネフ/オルドジフ・カイゼル/ユリア・イェンチ/マリアン・ラブダ/マルチン・フバ/ミラン・ラシツァ/スザナ・フィアロヴァー/イジー・ラブス/ペトラ・フシェビーチコヴァー/ルドルフ・フルシーンスキーJr./パヴェル・ノヴィー/エヴァ・カルツォフスカー/ヨゼフ・アブルハム/ヤロミール・ドゥラヴァ/シャールカ・ペトルジェロヴァー/イシュトヴァン・サボー/トニア・グレーヴス
30点満点中19点=監3/話4/出4/芸4/技4
【給仕人がたどった人生】
1960年代半ば。プラハ再教育監獄から出所したヤン・ジーチェは、およそ15年ぶりに外の世界の空を見上げる。国境地帯の小屋で暮らし始めた彼が思い起こすのは、これまでの人生。駅でのソーセージ売りに始まり、町の名士たちが集まるビアホール、金持ち相手の不思議なチホタ荘、ホテル・パリ、ドイツ軍の優生学研究所……。チェコ激動の時代を給仕として生きたヤンが、恋に落ち、人々と出会い、そしていま手の中にあるのは。
(2006年 チェコ/スロヴァキア)
★ややネタバレを含みます★
【ビールが美味い、それこそが人生】
満席の映画館なんて久しぶりのこと。自分がしんみりしているのに周囲は笑っているという違和感は『ジンジャーとフレッド』以来か。
レディース・デーに映画なんか観るもんじゃない。そう思いながら、またもやってしまう我が身の愚かさよ。
この映画の主人公ヤンも、また然り。高望みをしたり出しゃばったりしては居場所を失くす、その繰り返し。もっともヤンは(少なくとも若い頃は)飄々と自分の人生を楽しんでいるようではあるが。
主人公の身に起こった出来事、彼の上や下を通り過ぎていったり彼の人生に重要な役目を果たしたりした人々を、回想として、時おり効果的にCGを盛り込んで順次提示するスタイルは『フォレスト・ガンプ』や『ビッグ・フィッシュ』の風味。
ただし“波乱万丈の大スケール”ではなく、かなりヤン(だけ)に寄り添って、狭い範囲をカッチリと画面に収める撮りかた。給仕ヤンの生きざまを身近なものとして観客に追体験させる作りだ。
行商人ヴァルデン氏が紙幣を床に広げている場面のように印象的かつアーティスティックなカットは、一生に何度か訪れる衝撃とターニング・ポイントの存在を示す。
スラップスティック的な味わいは、ドタバタだらけの人の生の切り取り。ラグタイムからワグナーまで画面に乗っけられる音楽の多彩さは、僕らが過ごす“彩られた人生”のあらわれ。
給仕、オーナー、教授、金持ち、女性が演じたエチオピア皇帝など登場人物が放つ“らしさ”は、それぞれの場所に、それぞれふさわしい人種が暮らしていることの表現だ。
鏡や銃声といったアイテムの再使用は、出来事と出来事のつながりや繰り返しで人生が作られていることを意味する。
描かれるのは、虚勢と地位で武装していても小銭を集めることに汲々としてしまう人間の浅ましさ、集めたカネはオンナに使われる=「どんなに男が偉くても、女の乳房にゃ敵わない」という真理、そんな無敵の“おっぱい”でさえ味気ないものにしてしまうイビツなイデオロギー。
1つ1つ考えるまでもなく、ヤンの周囲にあるものや人は、権威、服従、偽善、尊厳、要領のいい立ち回りかた……といったことの象徴だろう。小さな村の小さな男=ヤン自身は、チェコそのものの比喩に違いあるまい。
そう、『フォレスト・ガンプ』や『ビッグ・フィッシュ』がそうだったように本作でも、ユーモアと軽妙さの中に寓意が散りばめられている。当時のチェコならではの事件をベースに置きながらも、全地球的な人生の普遍性というか、“妙な、この世界”のどこにでもある“志し高き平凡な生きかた”を描いているように感じられる(そもそもヤンってチェコではもっとも一般的な名前のはずだし)。
チェコ人であれドイツ人であれ日本人であれ、きっと誰もが自分の“志し高き平凡な人生”を振り返り、告発と自己弁解に身をさらす時を迎えるのだろう。
本作では、ヤンの生きかたや給仕長たちのプライドやドイツの行為やチェコの歩みや観客それぞれの価値観を、肯定しないし否定もしない。ただ、どこで生まれどう暮らそうとも、お釣りを返して負債から逃れ、ようやく人心地ついたところで、ツマミとビールがあって、それを美味いと感じられる、そんな、小っちゃいけれど極上のひとときがあるということを、事実として示すのみである。
だって、自分の人生に白黒つけることなんてできない。そんなこと、怖くってできやしないんだから。
さて、ピルスナー・ウルケルの栓を抜くとしようか。イヤというほど知っている僕自身の平凡さを肴にして。
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