テラビシアにかける橋
監督:ガボア・クスポ(ガボア・チューポ)
出演:ジョシュ・ハッチャーソン/アンナソフィア・ロブ/ズーイー・デシャネル/ロバート・パトリック/ベイリー・マディソン/ケイト・バトラー/デヴォン・ウッド/エマ・フェントン/グレイス・ブラニガン/レイサム・ゲインズ/ジュディ・マッキントッシュ/ローレン・クリントン/キャメロン・ウェイクフィールド/エリオット・ローレス/ジェン・ウォルフェ/イアン・ハーコート
30点満点中19点=監4/話4/出4/芸4/技3
【その橋の向こう、僕らの世界】
両親、姉、妹たちと暮らすジェス。工具店に勤める父の稼ぎは少なく、生活は楽ではなかった。小学校ではイジメの標的、楽しみといえばスケッチブックに絵を描くことと、音楽のエドマンズ先生を見つめることだけだ。隣に引っ越してきたレスリーは、小説家の両親の影響か、物語を作り、文章をつづることが得意。彼女もまた上級生に目をつけられる。ある日、川の向こうの森に踏み込んだジェスとレスリーは、そこにふたりだけの王国を築く。
(2007年 アメリカ)
★★★かなりのネタバレを含みます★★★
★予備知識なしでの鑑賞をお勧めします★
【残酷なまでの喪失感】
必要なことを盛り込みながらテンポよく流れる序盤から、小さな世界の中に生きる少年少女が“心の目”によってふたりだけの王国を作り出していく展開が続く。
子どもにもわかりやすいよう整理されたストーリーだが、かといって説明しすぎることもなく、ジェスとレスリーがたがいに影響をおよぼしあいながら成長していく様子からは“育ちかた・育てかた”というテーマも見え隠れして、大人向けの配慮も感じられる。
デザインワークは『ネバーエンディング・ストーリー』(ウォルフガング・ペーターゼン監督)や『ミラーマスク』あたりに似て、カメラと人物たちの距離感は近く、大仰さのないテレビサイズの絵作り。祝日・夕方の教育テレビ、というイメージだ。
出演者たちの達者ぶりを楽しめる映画だともいえる。
ジョシュ・ハッチャーソンは『ザスーラ』のお兄ちゃん。当時も「自分の役割をまっとうする」チビっ子だったが、ここではさらに、気持ちの振幅や感情の停止も表現して、いい少年へと育っている。
アンナソフィア・ロブの美しさも素晴らしい。『チャーリーとチョコレート工場』のイヤミなバイオレットとも、『リーピング』の打ちひしがれたローレンともまったく異なる輝き。その演じ分けはすなわち、彼女が“女優”である証拠。あくまでも「小学生の女の子」でありながら、それ以上の存在感を放ってくれる。
天真爛漫な三女メイベルを演じたベイリー・マディソンちゃんも、かなり上手い。『Dr.House』での奇病を患った少女も印象的だったが、この子もやはり女優、ということなのだろう。
ロバート・パトリックは疲れ切った父親役が、ますます板についてきた感じだ。
一見すると、ディズニーらしい、安心して観ていられる御家族向けファンタジー映画である。
だが終盤、本作は牙をむく。ファンタジーだったはずが、突如として、これまで観た中でもトップクラスの残酷な映画へと変貌を遂げる。
この喪失感は『妖怪大戦争』で突きつけられたものに近い。
一応は『息子の部屋』や『ムーンライト・マイル』、あるいは、ひぐちアサ作のコミック『ヤサシイワタシ』など(それぞれ少しずつ本作と毛色は違うが)で、“失うこと”に対する免疫を身につけ、“前に進むこと”の重要性と難しさを認識していたつもりだが、それでも、立ち直るのに時間を要する内容。
痛いのだ。あまりに痛いのだ。泣いた。悲しいからではない。画面のこちら側で、ジェスと同じようにどうしようもないところへと追い込まれ、何も考えられない苦しさゆえに泣いた。
思えば、CGには粗が目立ったものの、全体として解像度の高い映像。それによってレスリーという少女の実在感が増していたことに気づく。この役を演じるのがアンナソフィア・ロブというタレント(才能)でなければならなかったことにも理解が至る。そしてイジワルなことに、消えた彼女は完全に消えたまま。失ったものの大きさをいやでも思い知らされる。
ふと、この映画の存在意義について考えてしまう。
もちろん、つまらないとか観なくていいレベルだといっているわけじゃない。ここから何を読み取るべきなのか、そもそも誰に向けて作られたのか、きっちり消化するためにとてつもない労力を求められる映画なのだ。
たとえば『スタンド・バイ・ミー』のような(作者が「昔こんなことがありました」と自らの原点を振り返る)位置にある作品ならまだ理解もしやすいのだが、どうやら原作は児童向けに書かれた文学らしい。
ならば、まずは子ども自身に、さまざまなことを考えさせるための作品であるはず。また、これを観た子どもたちとどんな話をすればいいのか、しっかり考えることを大人に求める、という機能・役割も持つだろう。
誰の心にも悲しみはあるが、それを言葉や行動の礫(つぶて)として撒き散らすのは許されないこと。誰かが君の悲しみを理解してくれるであろう希望。乗り越えることがすなわち生きていくことだという事実……。
ただ、それ以上踏み込んでいくだけの思考体力が、いまはない。かろうじて、作中で述べられる「彼女から得たものを大切にする限り、彼女は生き続ける」という言葉が小さな光となり、その光が、大切な人のいない世界に新しい未来と夢とを切り拓いていくための力になることを、祈るばかりだ。
ひょっとすると、もっと泥沼に入り込んでしまう可能性もあるが、原作を読んでみたいと思う。
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