グラン・トリノ
監督:クリント・イーストウッド
出演:クリント・イーストウッド/クリストファー・カーリー/ビー・ヴァン/アーニー・ハー/ブライアン・ヘイリー/ジェラルディン・ヒューズ/ドリーマ・ウォーカー/ブライアン・ホウ/ジョン・キャロル・リンチ/ウィリアム・ヒル/ブルック・チア・タオ/チー・タオ/チョウ・クー/スコット・イーストウッド/ジア・ソウ・チャン/ソニー・ビュー/ドゥア・モア
30点満点中19点=監4/話4/出4/芸4/技3
【彼が愛したもの、遺すべきもの】
妻を亡くした元自動車組立工のウォルト・コワルスキー。古い家で愛犬とともに暮らし、口汚く偏見も多い彼は、ふたりの息子たちとのギクシャクした関係と、朝鮮戦争に従事した際の苦い経験を抱えてもいた。隣に住むモン族の内気な青年タオは、ゴロツキの従兄に脅されてウォルトの愛車グラン・トリノを盗もうとする。それをきっかけとしてウォルトは、タオ、その姉のスーらとの距離を縮めていくのだが、彼らの身にある事件が起こって……。
(2008年 アメリカ/オーストラリア)
★ネタバレを含みます★
【生の延長としての死】
撮りかたは、かなりオーソドックスで、大人しく、緩やか。主要登場人物たちの日常・周辺を追うことに終始しており、舞台もコワルスキー宅を中心とする狭い範囲に限定される。時間が急に飛んだりして時制の編集には無頓着で、ウォルトの決意を示すマーチ風の小太鼓には威厳がない。
かといって、安っぽいわけじゃない。
画面の端、ときにはフレームからハミ出してしまいそうな位置にウォルトをたびたび置いて“疎外されつつある者”を表現する試みはあるし、丁寧にカットを重ねてあることもわかる。
ただ、『ミスティック・リバー』から『硫黄島からの手紙』にかけての作品に見られた鋭さや漲るほどのパワーはなく、“小さな映画”であることは確かだろう。
また、序盤はウォルトの人格や周辺状況について説明的なのだが、トータルで見ると「何も説明されていない」ことも特徴的だ。息子との関係、神父の過去と彼が神父となった理由、ウォルトの病……。相当な部分を省力し、観客の想像に委ねている。
やや粗いとも思える作り、淡々と進む小さな物語。
そこで光を放つのが、クリント・イーストウッドの演技と存在感。相手はほとんどが素人ということもあってか、彼の「むふぅぐるるる」という鼻息は腕力となって観る者を引っ張っていく。
そして、小さな世界の小さな人たちを描いた小さな作品で、ウォルト=イーストウッドが腕力で立ち向かうのは、まさしく生と死だ。
とはいえウォルトはタオに「生きるために必要なのは○○だ」と教えるわけではない。アドバイスや先導はするが、どう受け取るか、すべてはタオ次第というスタンス。また、生とは、死とは、と、大上段から意味深い言葉を投げつけるわけでもない。
ウォルトは数十年の月日を積み重ねてきた。そこに詰まっているのは、集められた工具、「治す」ことへのこだわり、グラン・トリノに対する愛着、家の中ではタバコを吸わないというルール。生活を彩るのは、バーにたむろする悪友たちとのくだらない会話だ。
重くて辛い過去に苦しみ、哀しい現在に後悔しているかと思えば、他人から見れば取るに足らない“引っかかり”を長年に渡って抱き続けてもいる。ウォルトを含む多くの人たちが、経緯を説明されることのない結果に振り回されている。
それこそが、生。それだけが、生。
やがて死が、そんな生の延長として提示される。死してなお生きるという意味ではなく、これまでの生と同じように「大切なものを大切なままにしておくための、苦しみと作業の、最後のひとつ」としての死。
もちろんその死は、多くの可能性を救う意義ある死ではあっただろう。だがいっぽうで、劇的ではなく、ただ「そうした」結果としての死のように感じられるのだ。
生も死も“たいしたことのないもの”ではないだろうが、“必要以上に意味のあるものでもない”といわれているように思えるのだ。
人のおこないは、やりたいこと、やれること、やって欲しいと望まれていること、やらなければならないこと、その4つの輪がなるべく多く重なりあうところでなされるのがベストだというのが持論。
もちろん、その重なりの中だけで生きていくことも死んでいくことも易しいことではない。本作で描かれる生は決して「やりたいこと」ばかりではないし、死は「やって欲しいと望まれていること」ではなかった。
が、冷静に4つの輪を心の中で描き、取った行動の結果として生があり死がある。そういう形での生と死を見せてくれた作品である。
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