しんぼる
監督:松本人志
出演:松本人志/デイヴィッド・クインテロ/ルイス・アッチネリ/リリアン・タピア/アドリアナ・アリッケ/カルロス・トーレス/イヴァナ・ウォン/アルカンジェル・デ・ラ・ムエルテ/ミステルカカオ/ディック・東郷
30点満点中19点=監4/話4/出3/芸4/技4
【閉じ込められた男、戦う男】
メキシコのとある町、ルチャ・リブレのレスラー=エスカルゴマンが、自分よりひと回りも若いルード(悪役)と戦う日。息子のアントニオは父の勝利を信じていたが、旧友たちは「いつも味方の足を引っ張る弱いレスラー」とバカにする。いっぽう、だだっ広くて真っ白な部屋で目覚めたのは、おかっぱ頭&柄物パジャマの男。壁から突き出たオチ○チンを指で押すと、現れたのは無数の天使。男はなんとか部屋からの脱出を図ろうと悪戦苦闘する。
(2009年 日本)
★ネタバレを含みます★
【実はあなたの、パーソナリティを問う】
前作『大日本人』で、自分自身と笑いとTVとの関係を真っ向から描いた松本人志。ある意味それは、松本人志という人間が映画でやれる“すべて”だった。だから本作は「他に何ができるの?」「ひょっとして映画でコントをやっちゃうんじゃないの?」と、ちょっとした心配を胸に抱いて観た。
不安は的中したが、その中身は、またも嬉しい裏切りに満ちていた。
まずはメキシコ・パート。『アラビアのロレンス』を思わせる1stカットに始まり、手持ちカメラは一家の生活へと入っていき、野暮ったくてナチュラルなキャストが生きる、ゆるりと流れる時間、ホコリっぽい世界を、そのまんますくい取っていく。
なんかもうフツーに映画していて、いやそれどころかキュアロンとかイニャリトゥ的な濃密さもあって、「こういうのも撮れるんだ」と感心させられる。
続いて白い部屋パート。こちらは一転、まさしく松本による“ひとりコント”に終始する。ネタのひとつひとつは大して面白くない。が、演出/美術/CGの仕事と構成はなかなかのものだ。
まずは部屋そのものと天使のヴィジュアル・イメージ、笑い声や音、ボカっと各種アイテムが吐き出される際の無機質さ、それらから漂う虚無的な空気に「人の畏れの具現化」を感じる。つまり最初は、恐怖。いやぁ、こういう状況に置かれたら、ひたすら怖いでしょ。
でもやっぱり中心にあるのは笑いで、さながらソリッド・シチュエーション・スリラー&コメディである。
やがて状況は、ゲームと化していく。目の前にあるモノを、どうやって生かして脱出に至るか。ここでは、ジックリと行動を見せたり、逆にすべてを見せなかったり時間をジャンプさせたり、コント的な“間”と映画的なテンポを融合させる。立方体の部屋の奥行きや幅を上手く利用した画面構成も見せる。恐怖と笑いからワクワクへの移行だ。
パジャマ男がバカである(少なくとも理知的ではない)こともポイント。重いモノが必要なときに、わざわざフレームの中にわかりやすく重いモノをうつし込み、「なぜそれを使わない?」「なぜオチ○チンをマークするなど効率的な解決を模索しない?」とイライラさせ、観客をパジャマ男に対して優位な立場に置くのだ。
そして結びつけられる、メキシコと白い部屋。なんと大胆不敵にも、神を描いてしまいやがった。しかも、われわれより下位にある者が絶大な力(そうでもないか)を与えられるのだ。
いや確かに「システムとしての神」というオチは手垢の付いたものかも知れない。が、恐怖、笑い、ゲーム、イライラと遷移して、一気に神へ持っていく、その強引な構成に痺れる。「些細な行為が、本人のあずかり知らぬところで重大な結果を呼ぶ」とか「愚者によって動かされる世界」、「テストと実践」など、多くの要素をゴッタ詰めにしたこともスゴイ。
メキシコの善良なファミリーの物語が、たったひとつのありうべからざる出来事によって、こちらもコントと化す。そんな“世界の崩れかた”にも痺れる。と同時に、別に崩れているわけじゃないんだと思い至り、さまざまなものがイコールで結ばれていく。
ああそうだ、会議室でアイディアを出しあってコントを作ることも、エキスパートたちが力を結集して1本の映画を撮ることも、首が伸びて試合に勝つことも、ロックスターが炎を吐いて客が喜ぶことも、花が咲いたり命が生まれたり朽ちたりすることも、ぜぇんぶ「何か(誰か)が何かをすれば何かが起きる」という点でイコールなんだ。
考えてみればハナっからこの映画って“アクションとその結果”を描いていたじゃないか。
監督によれば、パジャマ男が神であるかどうか、解釈は「観客の自由」ということになるらしいが、それは百も承知。というか、映画って元来そういうものであるはずだ。ただ、その“個人の解釈”というのが実は、本作のキーとなっているように思う。
それを示すのが、ラストカット。
ここで、ヒヤリとする自分、白い部屋パートの冒頭で覚えた以上の恐怖に対面する自分がいる。
その自分の中には、本作と(イメージ的または空気感的に)結び付けられるものとして『SAW』、『CUBE』と『NOTHING』、『地獄とは神の不在なり』、『GANTZ』、Flash脱出ゲーム、『装甲騎兵ボトムズ』、『エンダーのゲーム』、『ベルセルク』などがある。
自分が何かをした=ここでは「各種の作品に触れた」結果として、自分の中に何かが生まれ、それによって育まれた何かが、あのラストを「ヒヤリ」と感じさせてしまうわけだ。
人によってはまったく別の感覚に襲われたり、何も感じない人だっているだろう。でも少なくとも自分にとっては「あ、オレってここで『ヒヤリ』とするんだ」という発見、まさしく「何か(誰か)が何かをすれば何かが起きる」を実感する瞬間だった。
してみると、監督が自分自身を描いた『大日本人』とは逆に、これって観客を描いた映画ということなのかも知れない……。
実をいうと松本人志の作った笑いって特に好きというわけではないんだけれど、この人の映画を(たぶん世の大半の人よりも)評価してしまうのは、まずテーマありきではなく「何をどう見せれば面白いか?」というところからスタートしているからだと思う。それをつなげていって、あとの解釈は皆さんにおまかせします、と。
以前はそれを卑怯だと感じていたのだが、最近は「それこそが映画の正しい撮りかただろう」と思うようになっている。それもまた、何かの結果として作られた、いま現在の自分である。
まとめればこれは、やっぱりコントなのかも知れない。全体的な構造/作りとしても前作のほうが映画的かつ挑戦的であったといえるだろう。ただ、単に「スケールの大きなコント」にとどまらず、超大作とかB級といった等級付けの難しいSF的要素、さらには恐怖やらゲームやらイライラやら「あなたを問う」という要素も盛り込んで、つまりは「何かをした」結果として誕生した、不思議な何かである。
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