空気人形
監督:是枝裕和
出演:ペ・ドゥナ/ARATA/板尾創路/高橋昌也/余貴美子/岩松了/丸山智己/奈良木未羽/柄本佑/星野真里/寺島進/山中崇/裵ジョンミョン/桜井聖/オダギリジョー/富司純子
30点満点中20点=監4/話3/出5/芸4/技4
【心を持ってしまった人形】
私は「心」を持ってしまいました。持ってはいけない「心」を持ってしまいました……。ファミレス従業員・秀雄の安アパート、性欲処理の代用品である空気人形が、ある日、心を持って動き始める。初めて世界に触れ、自分の持ち主や老人と接し、レンタルビデオ店に務める純一に恋をして、働き始める彼女。純一の“息”で空っぽの彼女は満たされ、やがて彼女は「なぜ私は心を持ってしまったのか?」という疑問を抱くようになる。
(2009年 日本)
【あなたもわたしも空っぽ】
ペ・ドゥナという奇跡が、ここにある。
人形と人間との境界をあっさり無意味化するヴィジュアルを持ち、すべてをさらけ出し、伸びやかに笑い、戸惑い、そして演じる、女性としても女優としても一級の存在。
残念ながら、ペ・ドゥナのような女優は日本にはいない。同い年としては国仲涼子、奥菜恵、ともさかりえ、仲間由紀恵らがいる(彼女たちにもそれぞれ持ち味はあるが)ものの、もし彼女らがこの役を演じていたら、本作はキワモノかワイドショー向けのセンセーショナルなネタとして捉えられ、本作のような哲学ファンタジーにはなりえなかったのではないか。
もちろん“片言の日本語”という要素が可能にしたキャスティングであることは事実だし、ARATAも板尾創路も高橋昌也も力負けしない芝居を見せてくれるけれど、奇しくも「誰かの代替品」をテーマとする本作にあってペ・ドゥナだけが「取り替えのきかない存在」となっていることもまた確かである。
で、私自身はどうか、と考える。ためらいなく「取り替えなんか、簡単にできる」存在だと答えよう。
遺伝学的には唯一無二の存在ではあるだろう。私が生きてきた過程も、他の誰のものでもなく私だけの経験である。けれど、私が書く文章は他の人にだって書けるかも知れないし、その前提にある「私の思考」も、大部分が誰かと共通している可能性だってある。頭と体の中に何かが詰まっているのかどうかも心もとない。
作中で朗読される吉野弘の詩『生命は』は、こう語る。
あなたも あるとき
私のための風だったかもしれない
たとえそうだとしても、その風の役回りは、他の誰かでも務められたことだろう。そしてそれは、たぶん、世界中のすべての人にとっても同じこと。絶対的な存在、強烈な主体には、誰もなれない。みんな空っぽ。すべて人は空気人形。
多用される「柱や柵の向こうに人がいて、それを移動しながら撮る」というカット、ふんわりと包み込む音楽、各人物が生きる“ゴチャゴチャとした空間”を作り出した美術、ほとんど見分けのつかないキャスティング/うつしかたで捉えられる“孤独をむさぼる人たち”……。
こうした要素は、あなたも私も、大きな世界の中で、その世界にたいした影響を与えられず、ただ生きている空っぽの存在に過ぎないのだと、告げているように感じる。
誰かのための誰かという網目のような関わりで世界が成り立っていて、でも取り替えはきくとするなら、人が生まれるたびその関係は複雑化し、やがては崩壊に至るのではないか。
人とは、生命。息とは、生命の象徴。あなたの生命=息で、誰かが満たされる。でも、満たすべき相手を見つけられずに吐き出されない息や、満たす相手を求めて空しく吹かれ彷徨い続ける息が、世界を窒息させてしまうことだってあるのではないか。
それで、生命は有限なのかも知れない。「いつかは死なないと、世界は生命であふれてしまう」のだから。
それでもなお人は、自分にしか果たすことのできない役回りを探す。父親や諭す者やキャリアウーマンであろうとする。満たされたいと願うと同時に誰かを満たしたいとも願う。誰かにとって取り替えのきかない自分であろうとして、生まれ、生命をまっとうし、死んでいく。
そうした人の“ありよう”こそが綺麗なのだと、本作は語る。たとえ中身が空っぽでも「誰かにとっての私」であることは可能なのだという救いも発する。
生まれること、生きること、死ぬこと、人とは何か、人の中に何が詰まっているのか、誰かと関わることの意味……などについて考えさせ、そして無性に人が愛おしくなる、そんな映画である。
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