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2009/11/12

ハンティング・パーティ

監督:リチャード・シェパード
出演:リチャード・ギア/テレンス・ハワード/ジェシー・アイゼンバーグ/ジェームズ・ブローリン/ダイアン・クルーガー/リュドミール・ケレケス/クリスティーナ・クレペラ/スナザナ・マルコヴィッチ/ジョイ・ブライアント/ゴラン・コスティッチ/セミル・クリヴィッチ/ニティン・ガナトラ/マーク・イヴァニール/ズドラフコ・コチェヴァル/ディラン・ベイカー

30点満点中19点=監4/話4/出3/芸4/技4

【落ちぶれた男が追う、特大のネタ】
 世界中の危険地帯を渡り歩くTVリポーターのサイモン・ハントと、カメラマンのダック。が、ボスニア紛争で起こったある事件がキッカケとなってサイモンは職を失い、姿を消す。紛争終結から5年後、記念式典の取材のため新人ベンジャミンらとボスニアへ戻ったダックは、サイモンと再会。特大のネタをつかんだというサイモンの言葉に、いまなお危険の残る一帯へ踏み込んでいく3人。行く手に待ち受けるのは、想像を超えた出来事だった。
(2007年 アメリカ/クロアチア/ボスニア・ヘルツェゴビナ)

【エンターテインメントの中の真実】
 冒頭で「本作中“まさか”と思う部分こそが事実です」と告げられる。ところが頭からお尻まで“まさか”の連続。一応はラストで事実部分が明らかにされるけれど、全編ほとんどが事実(少なくとも製作サイドはそう信じている)ってことなのかも知れない。

 意外だったのは、エンターテインメント作品であるという点。いきなり戦場の真っ只中へと観客を放り込み、以後はユーモアとスリルとある種の御都合主義を交えながら、予期せぬ展開をスピード感豊かに畳み掛けていく。

 撮影は『スター・ウォーズ』の新シリーズで立体的に世界を描き、『スピード・レーサー』では幻想を、『NEXT-ネクスト-』ではスマートでシャープな絵を見せたデヴィッド・タタソール。
 プロダクション・デザインは『ワールド・トレード・センター』で瓦礫の山を再現し、『ガタカ』で冷たい近未来を創り上げたヤン・ロールフス。
 これら一級の仕事に支えられて、演出も軽快。人の動きや状況を短く捉えるだけで「何があったか」「この後で何が起こるか」「この人物が何を考えているか」をわからせる、センスに満ちたディレクションをリチャード・シェパード監督が見せる。このまんまサスペンスや刑事アクションにできそうな、メジャーな作りといえるだろう。

 そこに混じる“事実”、セミ・ドキュメンタリー的な製作姿勢。
 実際に戦犯として手配されている(いた)ラドヴァン・カラジッチとラトコ・ムラディッチ、さらにはミロシェヴィッチやその妻ミリャナ・マルコヴィッチらをミックスしてフォックスという架空の人物を創造、「いや、あくまでフィクションですから」という形だけのエクスキューズは用意しているけれど、だからこそ余計に、エンターテインメント性の中にかなりの事実が盛り込まれている作品だと感じる。

 たとえばコカ・コーラのロゴで提示される“サラエボ”は、本当にあるものらしい。それは『グッバイ、レーニン!』同様、西側物質文明へ向けての揶揄か、それとも本当に繁栄を願っての叫びか。
 あるいはアンカーマンの「嫁に殺される」という軽口、戦場を知らない者と知る者との間には、これほどまで「殺されること」に対する温度差があるわけだ。
 さらにはダックが語る「戦争は複雑じゃない。ただ『地獄』だ」「映像で伝えられることと、実際とは違う」という言葉。
 それらは戦争と戦場における“事実”を超え、人間社会の“真実”として観客に突きつけられる。

 そして、もっとも納得してしまったのが「ジャーナリズム」という行為の意義と意味について。
 当ブログでは「ジャーナリズムとは何か?」というのが、映画を鑑賞する際の大きなテーマのひとつとなっている。本作と同じボスニア/サラエボを舞台とした『ウェルカム・トゥ・サラエボ』では「何の役にも立たず、道義的にも間違った『高度な政治的判断』という馬鹿馬鹿しいものを覆してブチ壊す」ための手段だと感じた。また『ミッドナイトイーグル』では「伝えたいことがある人と、伝えてくれることを待っている人がいるなら、その仲立ちとしてジャーナリズムは十分に存在意義がある」と認識できた。
 ところが、ちょうどこの映画を観る直前に目にしたニュースで、そうした思いは揺らいでいた。飛んでいる旅客機の中、キャビン・アテンダントの制止も聞かず、連行途中の容疑者に群がり、コメントまで求めようとするTVクルーたち。保護される被害者を追うカメラ。

 ああ、でも結局は、そういうことなんだ。
 危険と惨劇と反社会的な行為の中に身を投げて何かを掘り起こすこと、そうして掘り起こされたものを観る愉快、つまりは背徳の悦楽。サイモンやダックがそうであるように、ジャーナリズムは、提供する側にとってもされる側にとってもドラッグなんだ。あるいは復讐心と同様に、そうせざるを得ない、人の持つ衝動なのだ。

 エンディングに流れるのは『I Fought the Law』。そこでは「I fought the law and the law won」と歌われる。ここでいう“law”とは、法律ではなく人間世界の法則や摂理を意味するのだろう。
 人は戦争の成り行きを操ろうとし、その巨大な思惑と力が世界を支えているという、動かざる法則。そして、戦争を覗き見たいと思ってしまう背徳心に理性が打ち負かされるという摂理。
 戦争ではなく、人間の“業”こそが悲惨。それが真実。そんなことを伝えようとする作品である。

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