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2009/11/09

この道は母へとつづく

監督:アンドレイ・クラフチューク
出演:コーリャ・スピリドノフ/マリヤ・クズネツォワ/ニコライ・リュトフ/ユーリ・イツコフ/デニス・モイシェンコ/サーシャ・シロトキン/ポリーナ・ヴォロビエワ/オルガ・シュヴァロワ/ディマ・ゼムリャンコ/ダーリヤ・レスニコワ/ルドルフ・クルド

30点満点中17点=監4/話3/出4/芸3/技3

【本当の母さんは、どこ?】
 ロシア、氷と霧の中に建つ孤児院。マダムに連れられてやって来たイタリア人夫婦は、6歳の少年ワーニャを養子として引き取ることにする。手続きが終わるまで約1か月。そこへ、ワーニャと親しかったムーヒンの母親が訪ねてくる。だがムーヒンは、誰かに引き取られた後。「もし自分がイタリアへ行った後で本当の母さんが訊ねてきたら」。そう考えたワーニャは、院長室に忍び込んで自分の出生記録を盗み読みしようと思い立つのだが……。
(2005年 ロシア)

【遠い国の現実】
 ブローカーの存在、孤児院の経済、わざわざイタリアから里親がやって来るという事実に隠されたロシア社会/国際社会の実情、孤児たちが生きるために身につけざるを得ない価値観と技術と生きざま、孤児たちの中に(恐らくは)自然発生的に作られた自治統制と互助のシステム……。
 そうした「里子と里親と仲介役と形式的保護者という関係」について、やや淡々と、その現場へと潜り込むような作風で撮られた映画。ダルデンヌ兄弟作品(『ある子供』『息子のまなざし』)ほど鋭角的ではないけれど、小さく近く生々しくまとめられている。
 割れそうなグラスを指先で弾いたような、小さなBGMが物悲しい。懸命さとナチュラルさを全身から発するワーニャ役コーリャ・スピリドノフ君が可愛く、痛々しい。

 試みに「ロシア 人身売買」で検索してみると、相当な数のニュースや記事がヒットする。本作で述べられているように、臓器などを目的とした取り引きが多発、かなりの国際問題となっているようだ。
 仮に正当な(というのもヘンだが)、本当に里子を欲しがっている夫婦を相手にした“やりとり”であっても、そこにはカネが絡み、引き取られる子どもとその後ろに続く予備軍たちの感情や未来などパーソナルな問題も関わってくる。いわば“経済活動と、人としての道徳・倫理・覚悟”という、異なる価値観の、微妙な衝突や妥協が発生するわけだ。
 少し距離を置いたところから、そんな現実・成り行きを見るしかない僕らにとっては、「せめて、すべての人が幸せに」と願うほかない。

 そう、見るしかない、という作り。楽しむというより、ただワーニャと周囲の環境を見守るだけの映画といえる。
 ワーニャ、彼を追うグリーシャ、ワーニャの母、院長、マダム、孤児のリーダー格であるコーリャン、ワーニャを助けるイルカなどの心情や事情は掘り下げられることはなく、「こういうことがありうる」と提示し、その裏側の闇(病み)について考えてもらう作品、といったところか。

 とはいえ、救いは用意されている。
 ワーニャが文字を覚えようとして読むのは『ジャングルブック』、狼に育てられた少年の話だ。アイデンティティを否定されるかのように「イタリアン」と呼ばれる彼の中に、自分の本当の居場所はどこか他にあるという想いが強く息づき、それが彼の行動の大きな原動力となっていることをうかがわせる。
 子どもは誰だって、自分は特別だと盲目的に信じている。その信じる力が世界を動かすことも、確かにありそうだ。

 コーリャンの優しい厳しさ、ナターハやイルカが抱く(自己嫌悪ゆえだろうか)思いやり、ワーニャが出会う人たちの親切、グリーシャの行動……。目の前で苦しんでいる者がいれば、手を貸す。そんな、人間の“ともによりよく生きていくための力”も描かれる。その力もたぶん、世界を変えていくものとなるだろう。
 どうやらこの作り手にも「せめて、すべての人が幸せに」という想いがあるようだ。

 遠い国の現実を覗き見る映画ではあるが、僕らの住む世界すべてを救うために必要なものについて教えてくれる、そんな映画でもある。

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