マイティ・ハート/愛と絆
監督:マイケル・ウィンターボトム
出演:アンジェリーナ・ジョリー/ダン・ファターマン/アーチー・パンジャビ/イルファン・カーン/ウィル・パットン/ジリアン・アーメナンテ/ゲイリー・ウィルメス/デニス・オヘア/アリー・カーン
30点満点中18点=監4/話3/出4/芸3/技4
【彼を想い、屈することなく】
ウォール・ストリート・ジャーナル紙の記者ダニエル・パールと、その妻でラジオ局勤務のマリアンヌは、9・11以降、中央アジアで取材を続けていた。マリアンヌの出産のため帰国する直前、パキスタンのカラチでダニエルが何者かに拉致される。マリアンヌ、パキスタン当局、米領事館、ジャーナリスト仲間らはダニエルと接触した人物を洗い出し、何とか居場所を突き止めようとする。その成果は着々と上がっているように思われたが……。
(2007年 アメリカ/イギリス)
【複雑な、この世界】
実話の映画化とあって、ドキュメンタリー・タッチが貫かれる。カメラは人物たちに寄り、あるいはカラチの街並や人たちを細かく捉え、BGMは抑えられて、現場の“生音”を拾う、という作りだ。
そうして「この出来事は、僕らの生きる世界、生きる時代で起きた(起きている)こと」であると、伝えようとする。
僕らの生きる世界とは、テロリストに脅かされる世界である。哀しいのはこの事件が、現代世界を切り取った“1つの例”に過ぎないということだ。そして僕らの時代とは、善と悪、敵と味方、そうキッパリと分けることのできない「人の生きかたの複雑性」が、さまざまな衝突の引き金になる時代である。
本作では「1つの事件に関わっている人の多さ」が印象的に描写される。ホワイトボードに書き連ねられていく関係者と、調査にあたる人たち、もう誰が誰やら。わずか数秒、数行しか届けられないニュースの向こうでは、こんなにも多くの人たちが(引き起こした側も、解決しようとする側も)、それぞれの思想のもとに動いている。
その複雑性こそが、世界を“わかりにくい”ものにし、たがいに理解しあえないことが悲劇を呼んでいるのではないかと思う。
ただ、マリアンヌはシンプルだ。たいていの「夫人」ならパニックとなっていたであろう前触れなく起こった事件の渦中にあって、彼女は努めて冷静に、夫の無事を信じ続ける。
演じるのは出産直後のアンジー。かなり感情移入したそうだが、その思い入れが納得できる熱演。事件後に「テロリズムに立ち向かう唯一の方法は、嫌悪や恐怖感を自分でコントロールすること」と語ったというマリアンヌの持つ“強さ”を、けれどその裏にある“弱さ”とともに表現する。
彼女の慟哭に、こう思わずにはいられない。身重の女性を泣かせて、何が神=宗教かと。
人の世界の複雑性のもっとも大きな原因となり、それゆえ多くの衝突を引き起こし、この事件の背景にもあるはずの「信仰の違い」って、いったい何なのだろうか。もしも「嫌悪や恐怖感を自分でコントロールする」ための試しが宗教であり、宗教に端を発する衝突だとするなら、神とはなんて非情な存在だろうか。
神に救いを求める限り、人は殺しあうことになる。そんな皮肉すら心に浮かんでくる。
ある人はあくまでも神を信じ、ある人は神への不信を募らせて、それでも僕らは、非情な神が支配するこの世界で生きていかなくてはならない。悲報を受け取ったばかりのマリアンヌが、食べ物を買いに出かけるように。
救いがあるとするなら、2つ。
劇中、たびたび子どもの姿が映し出される。ラスト近くでは、母となったマリアンヌも描かれる。この子のため。その想いが、ひょっとすると世界をつなぎ、自分をコントロールするパワーとなるかも知れない。
そして、ダニエルの両親が、事件後、異文化間の理解促進に尽力しているという事実。確かに、わかりにくい世界を「わからない」ですませないことが、悲劇を繰り返さないための最大にして唯一の方法であるはずだ。
愛する存在へのシンプルな想い。世界が複雑であることを前提に、複雑性こそが「わかりあえる可能性を持つ」人としての喜びであるという想い。
その2つを忘れないことが、非情な神に対しての、僕らの回答だと信じたいものである。まさにそれこそが、神の思惑であるとしても。
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