シティ・オブ・メン
監督:パウロ・モレッリ
出演:ダグラス・シルヴァ/ダーラン・クーニャ/ジョナサン・アージェンセン/ホドリゴ・ドス・サントス/カミーラ・モンテイロ/エドゥアルド・BR・ピラーニャ/ルシアーノ・ヴィディガウ/ペドロ・エンリケ/マウリシオ・ゴンチャルベス/ヴィニシウス・オリヴェイラ/ヴィトール・オリヴェイラ
30点満点中18点=監4/話3/出4/芸3/技4
【リオ、当たり前のように死がある街】
ブラジル、リオデジャネイロ。若くして父となり、子育てに手一杯のアセロラと、その幼馴染で父親の名も顔も知らぬラランジーニャ。18歳を迎えようとしているふたりが暮らすのは、貧民街デッド・エンド・ヒルだ。ようやくラランジーニャの父エジャルドを見つけ出すが、丘のボス・マドゥルガドとその手下だったネフェストとの抗争が勃発、街に銃弾の雨が降る。巻き込まれたアセロラとラランジーニャ、ふたりの因縁も明らかとなって……。
(2007年 ブラジル)
【窟から抜け出す道】
フェルナンド・メイレレスの名を高めた『シティ・オブ・ゴッド』の姉妹編的作品。今回も舞台は“ファベーラ”と呼ばれるスラム街だ。
このファベーラ、リオを中心に900か所もあるという。外務省の安全情報によれば「ファベーラのほとんどで麻薬密売組織が暗躍し、犯罪組織間の抗争事件や組織と治安当局との銃撃戦が後を絶たない。流れ弾による被害や路線バスが無差別に放火される事件も発生」とのこと。『シティ・オブ・ゴッド』でも感じたが、行きたくはない場所である。
作りも『シティ・オブ・ゴッド』に近い。
日常を切り取ると同時に、いつの間にかストーリーをも進める、という魔術的な構造。たとえば、燃える家と、それを見上げる祖母の姿をロングで捉えたカットが上手さを感じさせる。“光景”=日常(ファベーラではしょっちゅう家が燃やされているんだろう)をうつすような撮りかたで“事件”=ストーリーを描き出すのだ。
逆光やハレーションを多用してリオの空気をすくい上げ、絵を短く積み重ね、適度に落とされたコマがリズムを作り出し、時制は一気に跳んで過去と現在とをつなぐ。
人物たちとの距離は自由自在。そうして彼らの置かれた状況を、過度な感情移入は避け、かといって突き放しもせずに、仲間と傍観者との中間で追い続ける。
巻き込まれたアセロラとラランジーニャの向こうに、ファベーラ社会の真実が見えてくる、という構成も素晴らしい。
生きる術としての戦争とサッカーが、同じ場所で営まれている。戦争といっても、ちんけな丘の奪い合いに過ぎない。
銃を握る者たちの中に、いわゆる大人はいない。恐らく成長する前に命を落としてしまうのだろう。銃声を聞いて「ひとり減った」と吐き、そんな暮らしを「異常」とする人に「これが人生」と返すアセロラ。
あるいは警察に捕まる者も多いはず。保護観察中の男たちが作る長い列はストリート・ギャングたちの(死ぬよりはいくぶんマシな)末路だ。
そうやって、父を知らぬ子が続々と誕生するという、負の連鎖がいつまでもつながっていくことになる。
ふと浮かんできたのが“窟”という文字。素直に意味を捉えれば「ほらあな」だが、巣窟とか貧民窟とか、マイナスのイメージで使われる文字だ。広辞苑では「人の集まるところ」となっていて、そうか、そもそも集まるというのは弱くて貧しくて善くない者たちの行為、人が集まればそれだけで場の空気は澱むのか、などと思ったりする。
死ぬことと投獄されることのほかに、あとふたつ、この“窟”から抜け出す道が示唆される。
ひとつは金。もちろん真っ当に稼いだ金。アセロラの妻は、家も手に入れられる額=3万レアルを稼ぐために、意を決して街を出ようとする。1レアルは約50円なので、150万円。が、真っ当な手段でそれだけの額を稼ぐことも、そのために犠牲を払うことも、僕らの想像以上に彼らにとっては難しいことなのだろう。
最後のひとつが、いっしょにいること。肩を組み、同じゴールに向かって同じ方向へと走ってきたアセロラとラランジーニャは、わだかまりを乗り越えて、これからもいっしょに走り続けることを選ぶ。
裏切りのない、信じられる誰かがそばにいること。たがいに「善くない道へは進まないでおこう」と助け合いながらいっしょに歩くこと。それは弱くて貧しくて大金を稼ぐ能力を持たない者たちが選べる、唯一の方法、というわけだ。
幼いクレイトンに、生きるための基本=道路の渡りかたを教えるアセロラの姿がまぶしい。父と息子がいっしょにいること。それもまた負の連鎖から脱出する方法だ。
かえすがえすも、行きたくはない。けれどその場所にも、懸命に「抜け出すためにやれること」を選ぶ人たちがいると、伝える映画である。
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