さよなら。いつかわかること
監督:ジェームズ・C・ストラウス
出演:ジョン・キューザック/シェラン・オキーフ/グレイシー・ベドナルジク/アレッサンドロ・ニヴォラ/ザック・グレイ/マリサ・トメイ/ダナ・リン・ギルホリー/ケイティ・ホーネッカー
30点満点中20点=監4/話4/出4/芸4/技4
【娘たちとの小旅行、言い出せない秘密】
妻のグレイスは軍人としてイラクへ出征中、留守を預かるスタンレー・フィリップスは、12歳半のハイディ、8歳のドーン、ふたりの娘の面倒を見ながらホームセンターで働いていた。だがある朝、グレイスの訃報が届けられる。何もいえぬまま、娘たちを小旅行へと連れ出すスタンレー。目指すはフロリダにある“魔法の庭”だ。少し怪訝な表情のハイディ、大喜びのドーン、そしてスタンレーを乗せて、クルマは南へと走り続ける。
(2007年 アメリカ)
★ややネタバレを含みます★
【伝えたいことを伝える映画】
ややハイキー気味の画面。あるいは解像度の低さと、ざっくりとしたコントラスト。寂莫とした朝と夜とがうつしだされる。
拾われるノイズ、人物たちに近づく広角レンズ。小さな世界で寄り添いあって、不安を抱えながら生きる家族が捉えられる。
TVに映されるのは、無謀な戦いに挑む『ジャックと豆の木』、アラビア世界の夢があふれる『アラジンと魔法のランプ』。イラク戦争の陰で暮らす3人にとって、なんと皮肉な物語たちだろうか。
クリント・イーストウッドによる透明な音楽が、壊れた世界の子守唄としてシェリル・クロウの歌う『Lullaby For Wyatt』が、静かに流れ続ける。まるで癒しのように。
一瞬、彼だとはわからないほど寂しげなジョン・キューザックがいい。虚勢を張るように、つまりは弱さを垣間見せて、俯き加減に外股で歩く姿。意味のない行動に思えて、その人だけの大切な記憶をなぞっていることを強く感じさせる、カーペットに触れる姿。何かすれば妻の死を認めてしまうという恐怖に苛まれて、シチューを食べようとしない姿。
だが、いつまでも立ち止まっているわけにはいかない。ふたりのgirlsを男手ひとつで一人前のwomenに育て上げる、その途方もなく難しい仕事に取り組む決意も不器用ながら示そうとする。
ふたりの娘も素晴らしい。
しっかりした性格と、自分ですべて背負い込んでしまう気質と、眼鏡。両親から確かに受け継いだ“静と陰”の部分、そのキャラクター設定の細やかさも良質だが、それにしっかりと応え、微かな“気づき”まで表現してみせる長女ハイディ役=シェラン・オキーフに惚れる。
逆に“動と陽”を受け継ぎ、弾ける“はしゃぎ”によって哀しみを倍加させる次女ドーン役=グレイシー・ベドナルジクちゃんもステキだ。
エンドロールを見ると、各方面からの援助を得ながら作られたもののようだ。規模もスケールもかなり小さな映画となっているのだが、誰かの意見や横やりを気にして汲々とするようなことはなく、伝えたいことを伝えることだけに邁進し、演出、音楽、技術、演技など、さまざまな面で“しっかりとした仕事”を感じさせる作品となっている。
そう、伝えたいことを“伝える”映画である。そのために用意された、スタンレーが娘たちにグレイスの死を“伝える”場面が印象的だ。
このシーンでは、恐らく旅の途中で考え抜いたであろう「治らない怪我もある」という言葉に続いて、あえて音声を消すという手法が採られる。
すなわちこれは、問いかけだ。観客に向けて、もちろん戦争の当事者たちに向けて「あなたはこの娘たちに、どんな風に母親の死を“伝える”のですか? どんな言葉をかけられるというのですか?」と、強烈に突きつける映画なのだ。
この映画が撮られた2007年、イラクで亡くなった米兵は901人に達したという。数のうえでは、これは「901分の1」の物語に過ぎない。だがグレイスは、取り替えようのない妻であり母であり、生きていたひとりの女性であることを忘れてはならない。
言い換えれば、同じような哀しみが901回繰り返されたということだ。
声高に叫ぶよりも強く反戦を意識させ、そして、遺された娘たちに対してだけでなく、901もの悲しい物語を積み上げてしまう人の愚かさに対してもまた、涙を禁じ得ない映画である。
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