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2009/12/03

西の魔女が死んだ

監督:長崎俊一
出演:サチ・パーカー/高橋真悠/りょう/真実一路/諏訪太朗/大森南朋/高橋克実/木村祐一

30点満点中14点=監2/話3/出4/芸2/技3

【魔女と過ごした1か月】
 中学校に上がってからクラスの中で浮いた存在になり、登校拒否に陥ったまい。自らもクラスに馴染めなかったハーフの母親は、何も聞かず、山梨の山中で独り暮らすイギリス出身のおばあちゃんにまいを預ける。大好きな祖母、ハーブの鉢植、野いちご、毎朝ニワトリからいただくタマゴ、降るような星、木漏れ日、ちょっと不気味な隣人……。そんな環境の中で、まいが立派な魔女になるための修行は続けられるのだった。
(2008年 日本)

【貧乏臭いというかセンスがないというか】
「大人になるにつれて、他人に見せたくないものが増えていく」
「毎日の変化が好きだから、変化を前もって知る必要はない」
 そうした素敵な言葉が散らされている。

 また、まいの置かれた環境と、おばあちゃんのおばあちゃん~おばあちゃん~ママ~まいという女系のつながり、あるいはおじいちゃん~パパのつながりは、人間社会におけるヨコ関係とタテ関係の意味を考えさせる。
 集団に溶け込んで仲良くする=ヨコの関係から、「好き」を受け継いでいくタテの関係へと自分を導くとき、人は、単なる魂の容れ物から“大きな時間の流れの中で確かに存在している生命”として生きていくことができるようになるのだろう。
 死は終末ではなく、その受け継ぐという行為の、ひとつの区切りでしかないのだ。

 と、いろいろな要素は詰まっているのだが、作りは貧乏臭いというかセンスがないというか。

 堅苦しい口調で放たれる、小説的なセリフ。「延々しゃべる」ことがメインとして作られるシーン。漏れ聞きという安直な手法。
 映画のシナリオとしては、ちょっとお粗末だ。

 それを説明的に、種類の少ないレンズ&ダイナミズムの乏しいアングルで撮って、少ないカットでまとめる。キーとなる場面や言葉も、ただフツーにうつしているだけ。「ここは、こうしたい」という意志のない絵。乗っかるのは安っぽいBGM。

 致命的なのは、色彩感覚の足りないトーンで、自然の瑞々しさが出ていないこと。おばあちゃんの家とその周囲に潜むはずのワクワクやドキドキや安らぎが、画面からあふれてこない。
 丘の上の野いちごの「すごい」も、木漏れ日の中の「好き」な場所も、何がどうスゴイのか、どこがどう好きなのか、観る者に問答無用で迫ってくるように、映像的・演出的な工夫を凝らして描写してこそ映画というものは成立するはずなのに。
 おばあちゃんが泣くシーンだって、ウソでもいいから真っ赤なワイルドベリーで画面を満たせば、もっと感動的な場面になっただろう。

 救いは、圧倒的なまでの存在感を示すおばあちゃん=サチ・パーカー。積み上げてきたもの、学んできたこと、強い意志と優しさ。まさしくおばあちゃん属性が、視線や肩のラインや柔らかな声からにじみ出る。学習院大に通っていたらしく、日本語も流暢。
 ふと「あれ? じゃあシャーリー・マクレーンって、いま何歳やねん」と思ったのだが、サチ・パーカー自身がまだ50代らしい。それでこの“味”が出るのだから素晴らしい。
 だからこそ、もっとおばあちゃんを魅力的に撮って欲しかったものだ。

 また、小気味いい編集と、走るクルマを窓外から捉えたカットだけは、この映画の中で光っていた。
 そういう“良さ”で満たされていれば、もっともっと感動できる作品になったと思うのだが、残念。

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