生きる
監督:黒澤明
出演:志村喬/小田切みき/金子信雄/関京子/日守新一/田中春男/千秋実/左卜全/山田巳之助/藤原釜足/小堀誠/中村伸郎/伊藤雄之助/浦辺粂子/南美江
30点満点中20点=監4/話3/出4/芸5/技4
【残された時間】
市役所市民課への勤めは30年間無欠勤、ただし、何もしない。そんな人生を過ごしてきた渡辺勘治。胃の痛みを覚えて病院を訪れた彼は胃潰瘍と診断されるが、胃がんで余命幾ばくもないことを悟る。これまでの無駄な人生を悔やむ渡辺。無断で仕事を休み、夜通し遊び、役所を辞めたがっている女子職員・小田切を誘って食べ歩く。が、心は晴れぬまま。どうすれば残りの時間を自由に生きられるのか……。やがて彼は、あることを思い立つ。
(1952年 日本)
【命短し恋せよ乙女】
音のない世界に、一貫して“孤独”の影をまとう渡辺の姿。
畳み掛けるようにして描かれる脳内での時空と悔恨の錯綜。
鏡を効果的に使ったダイナミックなカメラワーク。
色と空気を感じさせる夕映えの鮮やかさ。
いつまでも心に残る『ゴンドラの唄』。
豪腕とでも呼ぶべき『ハッピー・バースデイ』のパワー。
圧倒的な場面や作りに満ちているが、中でも印象的なのはエンジン音や列車の走行音など“見えないところから聴こえてくる音”がふんだんに散らされていることだ。
それは、自分とは関係のないところで、自分にとっては意味のない、別に関わりあいになる必要もない、誰かの人生が日々営まれていることを表す。
セクショナリズムと事なかれ主義にまみれ、憤りの中でも保身を考えてしまう人の愚かさは、ますます“関わり”を遠ざけ、どこかの誰かの日々は、無駄なもの、無駄な時間として市民課の机の上に積み上げられていく。
だが思えば、『8月のクリスマス』や『ココニイルコト』、『最高の人生の見つけ方』や『グラン・トリノ』といった“余命もの”、あるいは『ビッグ・フィッシュ』でも『アバウト・シュミット』でも、生きることの意味を問う映画では、その“生”は「誰かと関わり、誰かに影響を及ぼすこと」として位置づけられていた。
そしてもちろん、『生きる』をタイトルに戴く本作も。
たわいもない会話を交わし、刹那的なひとときをともに過ごす。そうやって「他人とは関係のない自分の営み」を重ねていくことも、たぶん生きることではある。けれど、より積極的に関わろうとすること、これまで自分にとって無意味だったものに意味を見出そうとすること、バラバラに存在するものの中に潜む意味をひとつに結びつけること……、それこそが「生きる」ことではないかと、本作は訴えかけるのだ。
渡辺は何かを、いわゆる「生きた証」を残したかったわけじゃない。これまで実践してこなかった「生きる」という行為に、あらためて取り組んだだけのこと。
ほとんど喋らず、つまり誰かとの関わりを避け、でも喋るときには一気に喋り、ところが意味のある言葉はほとんど出てこない。そんな渡辺を演じる志村喬のたたずまいが、「生きる」ことの難しさを強く語る。
通夜のシーンは、居心地の悪さや人の弱さをタップリと描こうという意図はわかるし、「回想によって露になる渡辺の姿」という構成の面白さもあると思うが、やや間延びした感じもあって、ここはあまり好きじゃない。
が、トータルで見ると、テーマ/メッセージにも作りにも芝居にも音楽や美術にも“圧”といいたくなるものがあって、あらためて黒澤映画の凄みを実感できる1本だ。
それともうひとつ。
サントラは洋楽が中心(それゆえ余計に『ゴンドラの唄』の存在感が際立つことになる)、夜の街並に漂う無国籍な空気や、クラブなどで見られる奔放で大胆な撮りかたもあって、どこかアメリカ映画的な気配を感じる。テーマの割には“軽いノリ”のようなものがあるのだ。
ってことは、これ、現代アメリカに舞台を移してリメイクしても面白いんじゃないか。
そりゃあまあ「あの名作をっ!」と批難を浴びるのはわかっている。でもテーマは永遠不滅のものだし、きっとあちらの役人もセクショナリズムとか保身に毒されているだろう。スラム問題とか思った通りに育ってくれなかった息子とか、共通する要素も多くて翻案は意外としやすいはず。「課長さんのあだ名は『アンデッド』よ」とか。
バカバカしいアイディアだけれど、それだけ現代にも通じる普遍性を、内容にも作りにも感じることのできる作品、ということである。
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