かいじゅうたちのいるところ
監督:スパイク・ジョーンズ
出演:マックス・レコーズ/キャサリン・キーナー/マーク・ラファロ/ペピータ・エメリッヒ/スティーヴ・モーザキス
声の出演:ジェームズ・ガンドルフィーニ/ローレン・アンブローズ/クリス・クーパー/キャサリン・オハラ/フォレスト・ウィッテカー/ポール・ダノ/マイケル・ベリー・Jr
30点満点中21点=監4/話3/出5/芸5/技4
【ひとりぼっちのマックス、かいじゅうと出逢う】
パパは船で出かけたきり、お姉ちゃんのクレアは遊んでくれない、ママは仕事やボーイフレンドの相手で忙しそうだ……。8歳のマックスはとうとう癇癪を起こし、小さなボートで海へ漕ぎ出した。たどり着いた島で暮らしていたのは、キャロル、ダグラス、ジュディス、アイラ、アレキサンダー、ザ・ブル、そしてKWといったかいじゅうたち。かいじゅうたちの王様になったマックスは「いいことばかり」の場所をみんなで作ろうとするのだった。
(2009年 アメリカ)
★ややネタバレを含みます★
【それは、僕らの中にいる】
原作と映画は別モノ。そんな詭弁がよく使われるが、本作の場合、原作をさらに掘り下げ、ふくらませ、見事に「絵本を映画にした」という印象が強く残る。
序盤、マックスの寂しさが実に痛い。孤独、周囲からの無理解、何ひとつ思い通りいかないことに対する怒り、世界がいつか終わってしまうんじゃないかという怖れ、僕はここにいると告げるかのように書きなぐられるMAXの3文字、そして沸き起こる破壊衝動……。そうした“少年の心”を、語りすぎることなくうつし取っていく。
不安定に揺れ、しかもマックスに近接してまわるカメラが、彼自身の抱えるものと、僕らの中にも昔あった(または、いまもある)はずのモヤモヤとを鮮やかにすくいあげる。ただマックスを追いかけているだけなのに、とんでもなく高い密度の痛みが画面に刻まれていくことに驚く。
父の仕事と不在、決して悪いヤツらじゃない姉クレアの友人たち、母の置かれた立場、父とマックスとの関係、そこから想像できる「船の乗りかたを父に教わったマックス」などを、さりげなく盛り込んでいく手際も上手い。
一転して、島での暮らしはニギヤカで楽しそうだ。「王様、まず何から始めますか?」と問われて「かいじゅう踊り」って、もはや僕らの価値観では測れない施策(ここは原作通り)。「7ダグラス」なんて、素晴らしくチャーミングな単位。
全身で駆け、跳び、投げて転がる。折り重なって眠る。何もない場所に築いていく要塞。愉快な生活。
主演マックス・レコーズ君が可愛い。透き通る白い肌、目もとと口もとはほんのり紅く、視線は覚束なく、高い声、華奢な四肢、大反則といえる狼の着ぐるみ。そのヴィジュアルと動きが本作を極上のショタ映画へ押し上げていく。『サージェント・ペッパー ぼくの友だち』のニール・レナート・トーマス君(こちらも着ぐるみ)、『ラブ・アクチュアリー』のトーマス・サングスター君、そして『妖怪大戦争』の神木隆之介君に匹敵するかそれ以上のショタ素材だ。
かいじゅうたちの声を務めた名優陣も上質だ。キャロル=ジェームズ・ガンドルフィーニは、とてもマフィアの親父とは思えぬほどの哀切を漂わせ、KW(know whoの意だろうか)=ローレン・アンブローズが優しさでマックスを包む。神経質なダグラス=クリス・クーパー、ちょっと短気なジュディス=キャサリン・オハラ、ぬぼぅっと低音のアイラ=フォレスト・ウィッテカー、おどおどしたアレキサンダー=ポール・ダノらが、ピタリと作品世界にハマる。
これらかいじゅうたちを“触れるもの”として実際に作ってしまおうという方法論はもちろん、そのアイディアを実現させてしまった美術監督のソニー・ジェラシモウィック、Jim Henson's Creature Shop、そしてスーツアクターたち(お尻を揺らしながら歩くKWがラブリー)の仕事ぶりが見事。
K・K・バレット(『マリー・アントワネット』)のプロダクションデザイン、サイモン・マカッチョンの舞台装置も素晴らしい。
特筆すべきはカレン・Oとカーター・バーウェルのコンビが織り成すサウンドトラックのパワー。決して雄弁ではないが、あるときは痛快に、あるときは心に染みるように、マックスやかいじゅうたちの喜びと哀しみと叫びを余すことなく音楽へと昇華させている。ハミングとシャウトで描かれる、浮かれと狂騒。トレーラーで印象的だったThe Arcade Fireの「Wake Up」に負けない名曲揃いだ。
すべてのキャストとスタッフが、スパイク・ジョーンズが振るタクトのもとで一丸となって、うそっこではない、実在する場所としての「かいじゅうたちのいるところ」を創り上げていった、そんなことが実感できる仕上がりとなっている。
けれど、どこか刹那的で、なんとなく晴れ晴れとしないマックスやかいじゅうたちの暮らし・気分と同じように、観る側も、胸に刺さったトゲを抜けないまま時を過ごす。なんというか、あまりデキのよくない自分の通信簿を突きつけられている感じ。
とりあえず、みんな忘れたつもりになってハシャイでみよう。そうすることの何が悪い。
でもホントに考えなきゃならないことは別にある。考えたってどうにかできるものじゃないし、王様になんかなれやしないし、気に入らないヤツを消してしまうこともできるわけないし、下手っぴなロボットダンスが報われることもないけれど、やらなきゃいけないことがあるような気がする……。
そう、この島は僕らのハートそのもの。誰の中にも“かいじゅう”たちは住んでいる。イジケたり妬んだり沈んだり、上手くいかないからって乱暴になったり、ときには優しくしてみたり。
キャロルがマックス、KWがクレア、ジュディスとアイラが母とその恋人という分析も可能なのかも知れないが、むしろ、すべてがマックスという人間の一部だと捉え、これまで支配的だったキャロル的人格・行動をマックスが客観的に見る物語と考えたい。
だからこの島のありようは、マックスと、マックスを自分の分身または過去として受け止めている僕らの心をチクチクとさせるのだ。「いいことばかり」の場所なんてどこにもないと思い知らされて。
そのチクチクを放っておくことはできないと気づいたなら、まずは、いろいろな想いが自分自身の中に生きているのだと認めることから始めよう。全部ひっくるめての自分。何もできないけれど、何かしたいとジタバタする自分。でもジタバタを、ただ刹那的で晴れ晴れとしない受かれと狂騒に置き換えるだけじゃダメだと、実は気づいている自分。
そう認めることができれば、わかる。きっと、あの人も同じなのだと。
いわば“インナー・スペース・ジャーニー”。それは原作でも描かれているもの=作品の骨であるはずだが、実に大胆な脚色と絶品のヴィジュアル、そして優れた演出で肉付けを施し、観せる映画、子どもにも大人にも楽しめる映画、涙を誘う映画に仕上げてくれている。
まさに原題通り『WHERE THE WILD THINGS ARE』=かいじゅうたちのいるところを描いた作品である。
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