スカイ・クロラ The Sky Crawlers
監督:押井守
演出:西久保利彦
出演:菊地凛子/加瀬亮/谷原章介/山口愛/平川大輔/竹若拓磨/麦人/大塚芳忠/安藤麻吹/兵藤まこ/西尾由佳理/ひし美ゆり子/竹中直人/榊原良子/栗山千明
30点満点中17点=監4/話3/出3/芸3/技4
★ネタバレを含みます★
【空を翔る子どもたち】
企業が戦争を請け負う世界。ヨーロッパ戦線ではロストックとラウテルンの両社が激しい空戦を繰り広げていた。大人にならない者=キルドレのパイロット・函南優一は、アイルランドの基地に配属される。が、上司の草薙水素や整備士の笹倉は、なぜか函南の前任者・栗田仁郎について堅く口を閉ざす。どうやら草薙が仁郎を死に追いやったらしいが……。さらに草薙は、敵軍のエースである“ティーチャー”に異様な執着を示すのだった。
(2008年 日本 アニメ)
【僕らの戦い】
極秘プロジェクトの集結地点を目指す、夜の飛行シーンが印象的だ。音楽は流れているのに、なぜか冷たい静寂が画面を覆う。『ビューティフル・ドリーマー』のバスのシーンを想起させて、押井監督らしさを感じられる場面である。
そう、不思議な音世界が、本作の特徴の1つ。布が擦れる、足音や声が響く、床やドアが軋む、ボールが転がる……。あらゆる音が、きっちりと形にされる(サウンドデザイナーとしてクレジットされているのはオスカー・ウィナーのトム・マイヤーズとランディ・トム、スタジオはスカイウォーカー・サウンド)。
空中戦での音の迫力や立体感よりも、全編に渡るその“密度”に驚く。
音だけじゃなく、徹底的に見た目のリアリティにもこだわる。
戦闘機を懸命に追う(そして振り切られる)ような、あるいは同乗するようなカメラワークで、観る者を戦場に叩き込む。背景の雲が動き(または動いているように見え)、風を感じさせる。開けた地にある空港に射す陽光とやや暗い室内での明かりの違いを描き分ける。
バトル中の会話は英語。ディスク・オルゴール、プロペラ機、壁掛け電話といった「ヨーロッパの戦場」を物語るアイテム。クルマに人が乗ると車高が下がるという描写。
ポーランドのレストラン。函南と草薙は、壁に掛け軸のある席で食事をしている。たぶん、日本人ゆえにそこへ案内されたのだろう。
地上の場面では、次のシーンへと移るタイミングが、ほんのコンマ数秒だけ遅いように感じられる。その間(ま)が居心地の悪さを引き起こす。
つまり“読み”を許し“ザワリ”を呼ぶ。そんなシーン作りの妙もある。
違和感があるんだかないんだか微妙な3DCGと2Dとのマッチング、そして密度感たっぷりの音と絵、粗密自在な演出とがあいまって、独特の空気が作られている映画だ。
恐らく実写でも、こうした空気を創出することは可能だろう。だが、この作品がアニメである意義を感じ取ることはできる。
肉体のない(プライベートの見えない)絵を動かしてリアル世界と作品世界とをキッパリ分かち、いっぽうで主要人物のボイス・キャストには菊地凛子、加瀬亮、谷原章介、栗山千明といった役者をあて(声優芝居を排し)ることでリアル世界とのつながりを保つ。そうしてキャラクターは「誰でもないが、自分だったり、そばにいる人だったり、誰でもありうる」という不確かな者として存在するようになる。
それはこの映画のターゲット層ともダブり、感情移入や考察を引き起こすモトともなるはず。すなわちキルドレとは、許される限り(または許されなくても)モラトリアムであり続けようとする現代の若者だ。
ファミリー向け・万人向けではなく、「ある種の距離感で、ある種の層に対してメッセージを届ける」作品。その機能を成立させる手段としてアニメという方法論が採られた、ということになるのではないだろうか。
が、キルドレはまた、人間そのものであるようにも思える。
平和のための戦争という詭弁に抗うこともできず、ただただ同じことを繰り返し、もっぱらコマとして存在する生き物。躍動感なく時間を過ごし、たとえひとときの興奮と戦果に達成感や実在感を得たとしても、やがて名もなき者として朽ちていく運命にある。そして、君の代わり(君と区別のつかない者)はゴマンといる。
頻出する、上下のわずかな揺れ。何かに運ばれて、その途中で少しの干渉を受けてゴトンと上下に揺れるが、結局、立っている場所は変わらない。
すべて人は、歴史や社会システムの中で流れに身を任せるだけの子どもであり、わずかな心の揺れがあったとしても、どうとも変わらないという事実を示しているのだと感じる。
えっ、と思ったのが「I kill my father」というセリフ。どうやら多くの人が同じ場所でドキリとしたらしい。
解釈はさまざまだろうが、「ひたすら増殖を繰り返し、自分より先に存在する自分的存在をティーチャーと仰ぎながら、コマとしての行動を反復する自分(すなわち人間すべて)がいるとして、その根源を断つことで、自分と何ら変わらない自分的存在が次々と生み出され消費されるループに終止符を打とうとするものの、そもそも、そうした歴史と社会システムがあってこその自分、墜とそうとしても墜とせない」という現実が、世界であり僕らであるとするなら……。
かなり悲観的な観念といえるが、その“脱ループ”こそ、本来、人が立ち向かわなければならない戦いであるのではないか。ああ、考えてみればそれって、やっぱり『ビューティフル・ドリーマー』でも描かれていたテーマじゃないか。
非キルドレ=大人とは、脱ループの戦いを諦めてしまった者のなれの果てなのか、それとも脱ループに成功した者なのか。そんなことも考えさせる作品である。
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