僕のピアノコンチェルト
監督:フレディ・M・ムーラー
出演:テオ・ゲオルギュー/ジュリカ・ジェンキンス/ウルス・ユッカー/エレニ・ハウプト/タマラ・スカルペリーニ/ダニエル・ロール/ノルベルト・シュヴァインテック/ダニエル・フューター/ファブリツィオ・ボルサニ/クリスティーナ・リコヴァ/ステファン・シェルテンリーヴ/ハイディ・フォルスター/ブルーノ・ガンツ
30点満点中18点=監3/話4/出4/芸4/技3
【天才少年の苦悩】
発明家の父レオ、出版社勤めの母ヘレンと暮らすヴィトス。好奇心旺盛でコウモリ好き、ベビーシッターのイザベルに恋心を抱く6歳の少年だ。彼が他の子と異なるのは、数字とピアノの天才であること。レオの成功で家計が潤い、ヘレンはヴィトスの才能を伸ばそうと英才教育に取り組み始める。だがヴィトスが12歳になったとき、不幸な事故が起きる。大好きな家具職人のお爺ちゃんとある秘密を分かち合うことになったヴィトスは……。
(2006年 スイス)
【優しく柔らか】
ヴィトスを演じたテオ・ゲオルギュー君、ホンモノの“ギフテッド”であるらしい。自ら演奏したピアノはもちろんだが、お芝居のほうもなかなかのもの。生意気だけれど悩める天才児を、等身大(当たり前か)にイヤミなく演じてみせる。
ただ、タイトルやテオ君の経歴から想像されるような「ピアノ映画」ではない。むしろ「子育て映画」というか、「生きかた映画」的な趣きだ。
与えているつもりが、逆に子どもからさまざまなものを奪ってしまっているヴィトスのママ。常に焦りや不安の表情を浮かべ、時おり混じる英語で息子を特別視していることが示される。その描かれかたがいい。
自己実現に手一杯のパパ。薄くなった髪は苦労の表れか。でも、彼が目指す成功って何だろう。
そんな両親に対し、不器用な反発を示すだけのヴィトス。
愛する誰かのためといいつつ、結局のところ生きることも家族というものも“個人主義”の集積でしかないと、本作は示唆する。ヴィトスには「周囲に頼るもののいない天才児」というエクスキューズがあるとしても、なんだか哀しい現実だ。いや、恐らく普通の子にも、普通の子を持つ家族にも、こうしたすれ違いはあるのだろう。子育てって難しい。
そんな中、ただひとり「一緒に楽しむ」という方法論でヴィトスと接するのがお爺ちゃん。まぁ孫に対する祖父の態度って、ある種の無責任感のおかげで親子関係より良好になるものだとは思うが、このふたりの会話はウィットにあふれている。
「決心がつかないときは大切なものを手放してみる」
大切なものをいくつも失い、望んだものを手に入れられないまま、年季を重ねてきた人物だからこそいえるセリフだろう。ブルーノ・ガンツの静かな優しさが、実にいい。
それぞれのつまづきや自覚や再生を淡々と描く映画といえるだろう。
キーとなる場面でもう少しアクセントの効いた撮りかたをしてほしかったとも思うが、引っ掛けようとして伸ばされた足を避けて歩く様子から「いつも、そうされていた」ことがわかるなど、柔らかな流れの中にテンポのよさや描写の上手さもある。
そして、時に画面から人物がはみ出しそうになるフレーミング。誰も枠の中には収まらない。私自身やあなたが考えている以上に、私自身の可能性は広がっている。そう感じさせる絵だ。
で、思った以上に大きなものを手放すことになったヴィトスだが、いったん自分を取り囲む環境をリセットすることで、彼にも見えてくる。
このあたり、級友イエンツェと自転車に乗っているシーンが印象的だ。人には、それぞれ自分の音楽がある。与えられた能力があり、やりたいことがあり、愛してくれる人がいる。ひょっとすると、それらに正面から向き合うことは苦しみをともなう行為かも知れない。でも、そうするために人は生まれたのであり、生きていくものなのだ。
「飛行機は地上にあれば安全だが、飛ぶためにある」
きっとそれはギフテッド以外の、普通の人々にも共通する戒めであるはずだ。やりたいこと、やれること、やらなければならないこと、やって欲しいと望まれていること、それらをひっくるめて正しい方向へ、苦しくっても歩き始めなければならないのだ。
たとえ“個人主義”でも、相手が幸せになってくれるなら結果オーライ。それがきっと、周囲と関わりあって生きていくということなのだ。
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