ハプニング
監督:M・ナイト・シャマラン
出演:マーク・ウォールバーグ/ズーイー・デシャネル/ジョン・レグイザモ/アシュリン・サンチェス/ベティ・バックリー/スペンサー・ブレスリン/ロバート・ベイリー・Jr/フランク・コリソン/ヴィクトリア・クラーク/ジェレミー・ストロング/クリステン・コノリー
30点満点中18点=監4/話3/出4/芸3/技4
【広がる怪現象、彼らはどこへ行く】
ある朝のNY。大勢の人が突如として感覚を失い、立ち止まり、自ら命を絶つという現象が相次ぐ。やがて怪現象の発生範囲は広まり、テロの噂も立ち始めた。高校で科学を教えるエリオットは、最近気まずくなっている妻のアルマ、親友で数学教師のジュリアン、その娘ジェスとともに、列車に乗って“危険地域”から抜け出そうとする。だが、彼らの行く先にも原因不明の自殺行為は絶えない。人は、どこへ向かおうとしているのか?
(2008年 アメリカ/インド)
【オモワセブリが警告と化す】
オープニング、何もないところから沸き立っては消えていく雲の様子は、吹き続ける風と、まさに「何もないと思っていたところに、突然、何かが発生する」という、この映画の重要なモチーフ/ファクターを印象づける。
そして、目の前に繰り広げられる不思議な光景。日常の中に、淡々と、静かに、ポンっと放り込まれる“あってはならないこと”。それが、これほどまでに怖いものだったとは。
以後の展開は、この監督にしては意外なほど速く、グングンと物語(というかエリオットたちの逃避行)を進めていく。
カメラはその場に潜り込んで、観客を不安に苛まれる当事者へと仕立て上げる。サントラはオカルトのノリで、さらに恐怖を煽る。
面白いのは、風や草木をほぼ“そのまんま”撮っていること。僕らの心にちょっとした「!?」が芽生えただけで、ふだん僕らを和ませてくれているものたちが、こういうふうに恐怖の対象として目にうつるのだ。
この不安と恐怖の中で、人はかくも無力である。
指輪のエピソードに、「科学」と「まやかし」は同義語ではないかという思いが募る。人の叡智の結晶であるはずの数学は、気を紛らわせるために使われる。
人類が知恵と努力を捧げて築き上げてきたものは、結局のところ不安と恐怖の中では、あるいは計り知れない自然界の中では、その程度にしか役に立たないものばかりなのだ。
恐らく、作中でも紹介される「ミツバチの大量消失」から着想を得て作られた映画だろう。下手な科学的推測など持ち込まず、僕らは何も知らないし何もわかっていないし何もできない、というベクトルでまとめたことが、かえって本作をSFたらしめているように思う。
いわば、警告。「守り抜けないなら触るな」「mind your step!」。完全には理解できない自然に囲まれて生きる僕らへの警句が叫ばれる。
そして「そんな不安と恐怖の中にあっても、いたわりあい、助けあい、求めあう」という人の基本的属性へと描写は収束する。その属性が美徳としてうつるのか、それとも諦めとして捉えられるのか、観る人によって感じかたは異なるのだろうが、「それは希望である」と考えたいものだ。
いくぶん説明すぎた部分はある。またテーマを考えれば、もう少し時間をかけて、主体となる登場人物も増やして「こういう状況下に置かれた人のたどる道」を、バリエーション豊かに描いてもよかっただろう。
が、「雰囲気たっぷりに撮るけれど、実はたいしたことのない内容」という映画ばかり作り続ける世界一のオモワセブリッカー=シャマランの、その手法がストレートに生きていて、かつ妥当であると感じさせる、彼にとっての最高傑作(少なくとも集大成)かも知れない。
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