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2010/04/06

ブレードランナー ファイナル・カット

監督:リドリー・スコット
出演:ハリソン・フォード/ルトガー・ハウアー/ショーン・ヤング/エドワード・ジェームズ・オルモス/M・エメット・ウォルシュ/ダリル・ハンナ/ウィリアム・サンダーソン/ブライオン・ジェームズ/ジョー・ターケル/ジョアンナ・キャシディ/ジェームズ・ホン

30点満点中20点=監4/話4/出4/芸4/技4

【レプリカントを追う男】
 2019年のLA、極限環境下での労働・使役などを用途として人間そっくりに造られた“レプリカント”6体が脱走する。デッカードはすでにレプリカント追跡の特捜部から身を引いていたが、かつての上司に呼び出され、この事件を担当することになった。彼はレプリカントを製造したタイレル社で、自分もレプリカントではないかと疑うレイチェルと出会う。いっぽう脱走レプリカントのロイたちも、タイレル社に迫りつつあった。
(1982年&2007年 アメリカ/香港)

【人間とは、何か】
 最低でも5つのヴァージョンが存在する本作。おおまかには(1)わかりやすさに考慮してナレーションや「飛行エンディング」が採用された初期公開版と、(2)「ユニコーンの夢」が追加されるなど監督が本来意図した内容となったディレクターズ・カット版に分けられるといえるだろう。
 20年くらい前に(1)を、数年前に(2)を観て、今回は製作25周年記念として作られた(2)最新版の鑑賞。

 この最新版では、いくつかのミスの修正、シーンの追加(復活)のほか、高画質化も図られているとのこと。そのクォリティを実感するためには真っ当なスクリーンで観るべきなんだろう。けれど、うちの液晶TVでも十分に映像的な“凄み”を味わうことはできる。

 オープニングから最後まで、圧倒的なヴィジュアル・イメージの連続だ。
 確か「貧しいコミュニティだけが地上に残ったため、LAはアジアティックな街になった」という裏設定があったと記憶しているのだが、その結果、これ以上ないほどエキセントリックで猥雑な、希望のない世界としての近未来ディストピアが完成している。
 まぁCRTとそこにうつし出されるイメージの若干の古さ、同じ場所で何度も撮影されている安っぽさはあるものの、ビジュアル・フューチャリストとしてクレジットされているシド・ミード、プロダクション・デザインのローレンス・G・ポール、両者の仕事が映画史に残るものであることは疑いようがない。もちろんヴァンゲリスの音楽も、作品世界にフィットするものとして忘れがたい。
 そして、暗く、くすんで煙った、粒子感のある、雰囲気たっぷりの画像。雨と夜、という設定が、さらに退廃を増加させているのも見事だ。

 冒頭部やブライアントとデッカードの会話などにやや説明臭さはあるものの、セリフは短いセンテンスで構成されるとともにギリギリまで削ぎ落とされていて、動き・流れ・出来事でストーリーをじっくり見せるという作りが徹底されている点は素晴らしい。
 出演陣では、ルトガー・ハウアーの狂気と哀しさもいいけれど、ダリル・ハンナの“ヤバさ”がツボ。堕落と妖しさに満ちたフォルムとメイク、目線と身体の動きが下半身を直撃する。
 全体に、サイバーパンクとして、フィルム・ノワールとして、そしてSFハードボイルドとしての“ぽさ”に満ちた外観だ。

 内容的には、どうか。
 一般には「(2)はデッカード=レプリカント説を裏づける」と認識されていると思うのだが、個人的には「どっちでもいいじゃん」というか「曖昧なままのほうがいい」というか、デッカード=レプリカント説はあくまでも話のネタ、彼の正体がどうであれ、この映画の意味も価値も、本質すらたいして変わらない、というのが率直な感想だ。

 飲む、食う、踊る、折り紙、タバコ、ピアノ、血、キス、涙……。「人間らしさ」を象徴する行為やアイテムが散らされるが、ほとんどすべてがレプリカント側にも配置されている。生身の人間と人工知能を結びつけるものとしては、チェス(現実世界でも人間vs人工頭脳の対決がおこなわれているゲーム)が登場する。
 そしてロイの「長くより良く生きたい」という願いやレイチェルの「自分は何者か」という疑問は、人もまた抱き続けるもの。
 寿命の違いはせいぜい4年か数十年かという、誤差の範囲内。記憶などという曖昧なもので、人かどうかなど決定づけられはしないだろう。
 結局のところ人とレプリカントを明確に分けるものなど存在しないじゃないか。

 それこそが、本質。
 神は人を作って寿命を与えたが、この世界に神の気配は感じられない。人はレプリカントを作って寿命を与えたが、その寿命が尽きるより前に駆逐しようとする。願いが叶わぬと知ったロイは他者の生殺与奪の権利を手にすること、すなわち束の間の神となることに救いを求め、神に祈るような姿勢で眠りについた。
 人もレプリカントも神も、みな神であろうとし、人とレプリカントと神がたがいに殺しあい、たがいに必要としあうなら、そこに差などない、みぃんないっしょ。
 仮にデッカード=レプリカントだとしても人だとしても、その歩みは求めあうことと殺しあうことであり、待つのは“死”だけなのだ。

 そのうえで「じゃあ、人とは、何か?」ということについて考える。それがこの映画の意味であり価値であり、本質ではないかと思う次第である。

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