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2010/05/14

ファニーゲーム U.S.A.

監督:ミヒャエル・ハネケ
出演:ナオミ・ワッツ/ティム・ロス/マイケル・ピット/ブラディ・コーベット/デヴォン・ギアハート/ボイド・ゲインズ/シオバン・ファロン/ロバート・ルポーネ/スザーヌ・C・ハンケ/リンダ・モラン

30点満点中18点=監4/話4/出4/芸3/技3

【ふたりの青年vs家族のゲームが始まる】
 湖畔の別荘へやって来たジョージとアンのファーバー夫妻、その息子ジョージーと犬のラッキー。そこに、隣の別荘の持ち主・トンプソン夫妻の知人だというふたりの若者、ポールとピーターが訪れる。彼らの不可解で不躾な態度に嫌悪感を覚えるジョージとアンに対し、ポールとピーターは突如として牙をむき、ファーバー家の3人を拉致する。いったい、彼らの狙いは何なのか? 1997年に撮られた作品を監督自らリメイクした映画。
(2007年 アメリカ/フランス/イギリス/オーストリア
 /ドイツ/イタリア)

★ネタバレを含みます★

【ルールなどない、それがルール】
 映画で語られるストーリーには“ルール”があるはずだ。仕事に燃える女性は恋との板ばさみに悩まなければならないし、モンスターは自分を助けてくれた少年に心を開くのが相場だ。
 本作のようなサスペンスでいえば、夫は犯人の隙を見て反撃しなければならず、子どもは生き延び、妻は駆けつけた警官に助けられて救急車の後ろで毛布に包まれるものだろう。

 そんな“ルール”を、ことごとく捻じ曲げていくのが本作。なにしろアンがハリウッド流ルールで行動しようとすれば、ポールは「巻き戻してやり直す」という“ルール破り”を敢行するのだからタチが悪い。「ヨットの中に落ちたナイフ」という伏線も、あっさりと否定される。
 唯一存在するのは「一家は死ぬ」というルールだけである。

 描きかたも、既存の映画ルールから乖離したものとなっている。
 クラシックから突然のデスメタル、それ以外の人口的な音やサントラはほとんど排され、誰かが発した言葉はたびたび「なに?」と聞きなおされる。犬はグニャリとラゲッジ・スペースから落ち、子どもの死体はリビングにゴロリと横たわる。
 1カットずつ、たっぷりと時間を取っての長回し。うつされるのは、床に落ちたタマゴを拭き取る、まずテレビを消す、苦労して立ち上がる、心が折れる、ドライヤーで濡れた携帯電話を乾かす……といった、通常なら省略される動作、描かれることのない行動。
 逆に、重要なのにあえて見せないという場面が多い。カットは1テンポ早く、あるいは1テンポ遅く次のカットに切り替えられる。
 ハリウッド流ルールなら「手近にあったペーパーナイフで紐を切る」のだろう。「頼むから子どもだけは」と命乞いするのだろう。が、ここではひたすら、何もできない(しない)まま苦しんでいる被害者の様子が捉えられるばかりである。
 そして観客への問いかけという“掟破り”まで用意されている。

 ナオミ・ワッツが鼻水を流す。ティム・ロスはうつむいたまま動かない。いずれもルールから外れたような姿。いっぽうでマイケル・ピットは薄ら笑いを浮かべ、ブラディ・コーベットは何を考えているのかわからず、ふたりは見分けるのも難しい外観。そもそも一家と若者たち、どちらが主人公なのかも判然としない。
 とにかく全編に渡って、違和感と生理的拒否感とを煽るような描写と道具立てに満ちているのだ。

 さて、僕ら観客の生きる現実世界でも「主人公は助かる」という一般的な映画内ルールは適用されない。もちろん“ルール破り”も通じないが、どちらかといえば「圧倒的な暴力を前に、あなたは何もできないし助かりもしない」というポールとピーターのルールのほうがリアルだといえるだろう。
 そう、違和感たっぷりの本作にあふれる捻じれたルールのほうが、現実世界に近いのだ。あるいはルールという確かなものが、存在すらしないという恐怖を突きつけられる。

 ポールとピーターが振りかざす「ゲームのルール」は実にインチキ臭い。本作はまた「物語の進展・伝えかたのルール」も不確かなものだと告げる。そして「あなたの生きる世界にも、明確なルールなどない」と思い知らされる。
 ルールに、観る者が振り回される映画である。

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