マンデラの名もなき看守
監督:ビレ・アウグスト
出演:ジョセフ・ファインズ/デニス・ヘイスバート/ダイアン・クルーガー/パトリック・リスター/シロー・ヘンダーソン/タイロン・キーオー/ミーガン・スミス/ジェシカ・マニュエル/ファイス・ンドゥクゥワナ/テリー・フェト/レスリー・モンゲジ/クライヴ・フォックス/エドゥアン・ヴァン・ジャールスヴェルト/クレア・ベルラン/ジェニファー・ステイン
30点満点中17点=監3/話3/出4/芸3/技4
【アパルトヘイトの下、マンデラを見守った刑務官】
1968年、刑務官ジェームズ・グレゴリーは家族とともにロベン島刑務所へ赴任する。南アフリカの農場で成長し、コーサ語を理解できる彼に与えられたのは、政治犯として収監されているネルソン・マンデラの監視役だった。マンデラらが唱える『自由憲章』を知り、官憲の横暴や爆破テロを目の当たりにし、国の将来を憂うようになったグレゴリーは、それから27年もの間、刑務所で機を待つマンデラと多くの時間を過ごすことになる。
(2007年 ドイツ/フランス/ベルギー/南アフリカ/イタリア
イギリス/ルクセンブルグ)
【無知と無節操と愚かさと分別のなさ】
マンデラとその看守がタイトルに冠されてはいるが、本作の影の主役はジェームズの妻グロリアだろう。
黒人を「白人から奪うテロリスト」と思い込み、「白人と黒人は相容れない。それが神様の意思」だと信じる。そんな世界を作った存在に対し「国が荒れても神様が守ってくださる」とすがる。そして最後には、親切にしてくれたマンデラにひと目会いたいと願う。
時代と権力者が作り出した価値観に振り回され、理想やイデオロギーではなく「現実問題としての生活をどう向上させるか?」という視点で未来を考え、世界の広がりは半径数メートルの範囲、世間体と付き合いに固執し、コロリと立ち位置を変えてしまう、市井の人々を象徴する人物だ。
見事な奥さんぶりと無知な市民ぶりを見せる、ダイアン・クルーガーが素晴らしい。
アパルトヘイトにしろ腐敗した政治にしろ、歪んだ社会システムは、偏見や差別や虐待や人権侵害や身勝手な欲望という「現象としての罪」を作り出す。だがそれだけでなく、むしろ、無知と無節操さと愚かさの中に人を“とどめおく”ゆえに、歪んだ社会システムというのは罪なんじゃないか、と思う。
もちろん、力に力で対抗する行為や、過ちを認めようとしないことも、また無節操で愚かなもの。
ただ、すべての無節操と愚かさの背景に「家族を守りたい」という願いがあるから、事態はややこしくなっていくのだ。
そうしたことを考えさせるべく、家族の生活、看守としての仕事、囚人としての日々を近い距離に置き、ストレートにジェームズとマンデラとその家族のたどる道を描くのが本作。陰影、色合い、拾われる音など“その場感”を大切にした作りも特徴だ。
図書館職員の「関わりあいたくない」という態度で公安局の権力の大きさを匂わせる。同僚と殴りあいになったジェームズにバーテンが自然と上着を差し出す様子から、白人どうしでも争いが絶えない社会であることがうかがえる。そうした語りの上手さもある。
いっぽう、いきなり時間が飛んだり、ジェームズがマンデラに感化されるきっかけ・過程をほとんど描かなかったりなど、かなり乱暴な面もある。どうやら140分ヴァージョンも作られているらしく、そちらではもう少し丁寧にジェームズの宗旨替えの様子が観られるのかも知れない。
が、そもそも歴史的悪政のアパルトヘイトについて、ジェームズが疑問を抱くようになるのも当然。わざわざ理由付けや描写はいらないともいえるだろう。
妨げられる意思疎通、封印される自由への叫び、温情という名の懐柔策、暴力の連鎖、檻の中にだけ自由と平和があるという皮肉。そんなもので成り立つ政治や世界が、あっていいわけがない。
そして、その過ちを打ち破るために必要なのは、ジェームズが持つ「傍観者になりたくない」という思いであるはずだ。野次馬的・目立ちたがり屋的な意思ではあるかも知れないが、その思いを行動に移すことから、世界の変化は始まるのだろう。
グロリアは「私たちには分別がなかった」という。そう気づくまでにあまりに多くの血と涙が流されたが、気づかないまま、自らを流される市民にとどめおくよりは、はるかにマシだ。
原題は『Goodbye Bafana』で、Bafanaとは「少年」の意。本作は、無知で無節操で愚かで分別のない、少年としての世界に決別することの重要性を訴える映画である。
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