ショーン・オブ・ザ・デッド
監督:エドガー・ライト
出演:サイモン・ペッグ/ケイト・アシュフィールド/ニック・フロスト/ルーシー・デイヴィス/ディラン・モーラン/ピーター・セラフィノウィッツ/ジェシカ・スティーヴンソン/ペネロープ・ウィルトン/ビル・ナイ
30点満点中17点=監4/話3/出3/芸3/技4
【イケてない男と女たちのサバイバル・ホラー】
いつものパブ、ショーンの周囲には渦巻くトラブル。恋人リズとの先行きは暗雲に覆われ、親友エドは空気を読まない負け犬、ルームメイトのピートからはイヤミをいわれるし、リズの友人ダイアンとデヴィッドは目障り、母バーバラの再婚相手フィリップともそりが合わず、勤め先では部下にナメられっぱなしだ。そんな折、人工衛星の墜落を機に謎の病気が蔓延、死んだ人たちがゾンビとなって蘇る。果たしてダメ人間は生き延びられるのか?
(2004年 イギリス/フランス)
【セオリーなきゾンビ映画】
描かれるのは、抜け出したいけれど生ぬるさが心地よかったりもする、廃とハイとが入り混じった生活。ツキに見放され、イケてない日々を送り、イライラしたりボーっとしたり、それでもなんとかやっているショーンの周囲が飾り気なく切り取られる。トボけた味わい、気だるい空気。
そこにビシっと挟まれる短いカット。まるでビデオクリップのように「主人公が歩く姿を横から撮る長回し」なんてシーンもある。
その背景では、着実に進んでいく人々のゾンビ化現象。けれど当面、ショーンにとっての問題は“自分のこと”だけ。
なるほどこの世界では、自分の近くの、自分とは関係のないところでいろいろなことが起こっているのだな、世界の一大事よりもっと深刻な(少なくともそう感じてしまう)出来事が身の周りにあるよな、こんな世界じゃ人なんだかゾンビなんだか見分けはつかないよな、ケータイって本当に無神経なタイミングでかかってきて神経を逆なでするよな……と実感。
もはや世界の終わりだ。いっそ終わってしまえ。そんな雰囲気は、たとえゾンビがいなくったってあちこちに漂っているものなのだ。
でもやっぱり周囲のことが目に入ってきたり、ところが意外と緊迫感はなかったり、いざというときにカッコよく活躍できなかったり。
どことなくフワフワしているけれど、意外とコレが「ゾンビが跋扈し始めた世界でのリアル」なのだろう。
それにしても、手当たり次第にモノを投げつけるって。不要なものと大切なものを選り分けてレコードを飛ばすって。挙げ句の果てにはゾンビのマネをして大群の中を突っ切っていくって。
セオリーに囚われない“ゾンビへの対応策”が笑える。
まぁ考えてみればゾンビ映画にセオリーなんてないのかも知れない。
死んだ人間が蘇って人を喰らい、噛まれた人間はゾンビになる。ゾンビを倒すには頭を潰せ。その約束事だけは不変・普遍だけれど、原因、災害の規模、主人公の立場、物語世界におけるアンデッドについての知識、対抗手段や逃げる先、詰め込むアイディアや哀しみの質量、トータルのテイスト、エンディングに至るまで、何をやっても自由。ゾンビを飼い馴らしたって構わない。
だから、ワーキャーわめいてアタフタするのではなく、どこにあったのか無数の銃と弾でドンパチやるのではなく、「ゾンビがどうこうより気にかかること」を抱えている若者たちが、必死と飄々と投げやりとモラトリアムの無責任とをミックスさせて事態に立ち向かっていく、そんなタイプの映画があったっていいだろう。
ただ本作は、やっていることはバカだけれど、やっている本人たちはマジメというポイントを外さない。そりゃそうだ。実際にゾンビに取り囲まれたなら、バカになっている余裕なんてない。このチームによる『ホット・ファズ 俺たちスーパーポリスメン!』でもそうだったが、シャレは、大真面目にやってこそ笑えるものでもあるわけだし。
ゾンビ映画へのリスペクトを示しながら、そこでできることの可能性模索に挑戦し、「イケてない等身大の男と女たちの、ちょっとオフビートなサバイバル・ホラー」として成功を収めた、異色の作品である。
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