プルーフ・オブ・マイ・ライフ
監督:ジョン・マッデン
出演:グウィネス・パルトロー/アンソニー・ホプキンス/ジェイク・ギレンホール/ホープ・デイヴィス/ゲイリー・ヒューストン/コリン・スティントン/ローシャン・セス/リーランド・バーネット
30点満点中17点=監4/話3/出4/芸3/技3
【証をください】
シカゴで暮らすキャサリン。彼女の父は、若い頃に数々の功績を残し、天才数学者として名を馳せたロバート。だが晩年は精神を病み、キャサリンは5年間に渡ってロバートの面倒を見続けてきた。父の急死後、自らも数学の才能を秘めるキャサリンは「自分も狂ってしまうのでは」と怯える。それまで反りの合わなかった姉クレアはいっしょにNYで暮らそうとキャサリンを気遣い、父の教え子ハルからは愛を告白されるのだが……。
(2005年 アメリカ)
【自分がここにいる証】
原作は舞台劇。そのせいか会話メインでストーリーは進むが、映像的・映画的な工夫もいくつか凝らされている。
やや解像度と感度の低いザラついた画質が、キャサリンの焦燥と寂寥感とを浮かび上がらせる。別の場所の音を画面に乗っけることで、時空の連続性や世界の広がりを表現し、「いまこの場所にいるその人」というものを観る者に意識させる。
生ける屍が肉親を喰らう『ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド』を狂ったロバートが観ているのも象徴的だし、“閃いた瞬間”を見事に、けれどさりげなく形にしてしまった点も鮮やかだ。
そうした作りの中で描かれるのは、原題『Proof』や邦題が示すように、自己の存在証明の難しさだ。
父親の亡霊や奇妙な曲『虚数』によってまず印象づけられるのは、あってはならないものがあり、あるべきものがない、不確かな世界。そこで「私がここにいる意味」「いまこの場所にいていい理由」を見つけ出すのは、なるほど困難なことかも知れない。
一応は天才数学者ならではの困惑=持てる者の恐怖を前面に出しているものの、あのノートはある意味でマクガフィン、自己の存在証明という底なし沼にハマる可能性は誰しもが抱えているはずだ。
たとえば姉クレアにとっては、メモを取り「TO DO」を1つずつ消化していくことや、「家族が住む家を守るため、家族と会わずに働いているというエクスキューズ」で自分を支える(あるいは自分で自分を誤魔化し正当化する)ことが、存在証明。
ハルもまた、己の能力の低さを自覚し、進むべき道への折り合いに悩み、けれど自分ができる精一杯の範囲で行動することによって、キャサリンにとっての特別な存在になろうとする。
キャサリンは自身の存在証明がやがて「もう世の中にいなくていい」という通牒につながることを不安に感じているようだが、それは必ずしも持てる者特有の恐れではなく、役目を終えた会社員や体力の衰えたスポーツ選手にも通ずるものではないか。何かを成し遂げるのと引き換えに生活を破綻させてしまうことなんて、よくある話だろう。
意外と重要なのは、キャサリンが自棄になって911にダイヤルした後、警官が来る場面をきっちり盛り込んだことなんじゃないかと思う。
そう、この世界では、1つの行為に対して何がしかのリアクションが起こるものなのだ。誰も“個”としてのみ存在しているわけじゃない。そこかしこで誰かと、見えない糸でつながっていて、それこそが「私がここにいる意味」となり「いまこの場所にいていい理由」となる。人との関わりの中で自分という存在は築かれる。
誰かとの信頼関係、誰かに注ぎ注がれる愛、誰かと積み重ねた時間……。それらが「自分がここにいる証」となることに、最後にはキャサリンも気づいたようだ。
そうした生きるうえでの真理を、ひんやりとした空気感の中で、グウィネス・パルトロー、アンソニー・ホプキンス、ジェイク・ギレンホール、ホープ・デイヴィスの4人の演技派が、熱とともに動くことで伝える、理知的ながらホットな映画である。
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