レボリューショナリー・ロード/燃え尽きるまで
監督:サム・メンデス
出演:レオナルド・ディカプリオ/ケイト・ウィンスレット/キャシー・ベイツ/マイケル・シャノン/リチャード・イーストン/デヴィッド・ハーバー/キャスリン・ハーン/ゾーイ・カザン/ディラン・ベイカー/キース・レディン/マックス・カセラ/マックス・ベイカー/ジェイ・O・サンダース/クリステン・コノリー/ジョン・ベールマン/ライアン・シンプキンス/タイ・シンプキンス
30点満点中17点=監4/話3/出4/芸3/技3
【郊外の白い家に住む“特別な”ウィーラー夫妻】
大戦が終了して間もなくのアメリカ。あるパーティーで出会った帰還兵フランクと女優を目指すエイプリルは、ほどなく結婚、子宝にも恵まれ、郊外の住宅地に建つ白く瀟洒な家で睦まじく暮らし始める。フランクは大企業に勤め、エイプリルは市民劇団の看板女優、傍目には申し分のない夫婦に見えるふたりは、“生きた世界”を求めて、かつてフランクが過ごしたパリへの移住を決意する。だが、そんな彼らの想いを阻むものがあった。
(2008年 アメリカ/イギリス)
★ネタバレを含みます★
【誰もが自分を特別だと思いたがっている】
公開当時、「あの『タイタニック』のふたりが再共演」というのを売りにしていたはずだが、いやはやまさか、内容まで『タイタニック』を意識したものだったとは。
レオとケイトに加えてキャシー・ベイツまでいたりとか、クルマの中でえっちしちゃったりとか、そういう見た目の共通点をいっているんじゃない。むしろ『タイタニック』に対する反動というか、「壮大なラブ・ロマンスに憧れるアンタたち。実際は、こういうもんだろ」と、いわんでいいことを突きつける映画なのだ。
雑踏に埋もれるフランクをうつして彼の平凡性を炙り出すなど、描写の上手さは随所に見られるけれど、基本的に構成は会話中心。そこからして『タイタニック』とは真逆。ふたりが動くのも、家の中と会社がほとんどで、世界は狭く、アクティヴでもない。
大胆なのは、ふたりの人物背景をゴッソリと省略したこと。これまでどんな暮らしをしてきたか、何を不満に思っているのか、なぜパリ行きを思い立ったのか、フランクの仕事の具体的な内容、エイプリルの女優としてのキャリアなどを、ほとんど明らかにしない。
序盤、フランクとエイプリルの歩幅の違いを印象づける。けれど、その姿が暗示するはずの、ふたりが抱く人生の価値観の違いをハッキリと描くことはない。ただモヤモヤと、不安と不満をぶつけ合うだけだ。
まるで観る側に「こいつら何者なんだよ」「どうして結婚しちゃったんだよ」「相手に何を求めているんだよ」とイライラさせるかのように。
このあたりも、運命の(そして特別でとびっきりの)愛を鮮やかに昇華させた『タイタニック』とは正反対だ。
それも当然。だって彼らは何者でもないのだから。自分たちを特別な存在だと、あるいは「周囲より、現在より、もっといい人生を歩むべき人間」だと思い込んでいる、どこにでもいるふたりなのだから。
そう、どこにでもいる。ほぼすべての人間が“こう”であり、夫婦の間には必ず温度差がある、ということを前提に、観る側の映し鏡として、フランクとエイプリルは暮らしているのである。
そんなふたりの、理由のないイライラとモヤモヤ、本心を誤魔化してつかもうとする幸せへの刹那的なドキドキを、レオもケイトもわかりやすい芝居で表現する。
そして物語は、あなたは望む物を何ひとつ手にすることはできない、だって何を望んでいるのか、あなた自身にもわかっていないのだから、という、救いのない真理を押し付けてくる。
フランクは「求めるものがノックスビルの15階にないことだけは確か」というが、まさに人は「こうじゃない」ことだけはわかっていて、けれど、じゃあどこにどんなふうにあるのかをわからぬまま生きていくものなのだろう。
たわいのない御託に耳を貸すと、それだけ迷いも苛立ちも増えるよ、と示唆する、いかにもサム・メンデスらしいシニカルなラストカットは気が利いているが、なんだか暗鬱な気分にさせられる映画である。
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