私がクマにキレた理由(わけ)
監督:シャリ・スプリンガー・バーマン/ロバート・プルチーニ
出演:スカーレット・ヨハンソン/ローラ・リニー/ニコラス・リース・アート/ドナ・マーフィ/クリス・エヴァンス/アリシア・キーズ/ネイサン・コードリィ/マチルダ・スチダギス/ヴィクトリア・ブースビィ/ポール・ジアマッティ
30点満点中18点=監4/話3/出4/芸4/技3
【子守の掟】
ニュージャージー生まれ、看護師の母ジュディに女手ひとつで育てられ、晴れて大学を卒業、趣味は副専攻でもあった人類学。けれどアニー・ブラドックは自分が何者なのかさっぱりわからず、就職もかなわない。そんな折、ちょっとした勘違いを機に知り合ったのはNYのアッパーサイドで暮らすミセスX。彼女の家で幼いグレイヤーの子守(ナニー)として働き始めたアニーだったが、問題だらけの家庭は彼女を憂鬱にさせるばかりだった。
(2007年 アメリカ)
【その呪文は、自分探しへの一歩】
以前はあまり好きじゃなかったというか、どこがいいのかわからなかったスカーレット・ヨハンソン。『スパイダーパニック!』ではまだ子どもだったし、『アイランド』は「ちょっとボぉっとした感じ」の役、主演の濃いぃ男ふたりに挟まれた『プレステージ』では印象が薄かった。
でも最近、仲さんに似ているなぁと、だったら可愛いんじゃないの、と思い始めたりして。『ブーリン家の姉妹』では存在感と怯えたような目で魅せてくれたし、もうちょっと出演作を観てもいいかも(まぁ『それでも恋するバルセロナ』は映画としてのデキがアレだったのでギブアップしちゃったけれど)。
で、本作。意外とムッチリしていて、なかなか可愛い。心なしか、お芝居も仲さんと共通しているように感じる。眉をしかめがちにして人を見る表情とか、はめてもいない腕時計を確認するバスルームでの演技とか。
そんなスカーレット=アニーの、自分探しの映画。いや彼女だけでなく、誰も彼もが“何者でもない”というキャラクター配置。ミセスXは何を求めているのやら、ミスターXはなかなか顔を見せないしどんな仕事をやっているのか不明だし、グレイヤーはただの聞き分けの悪い子どもだし。
あるいは、物わかりのいい親友、ハーバードのイケメン、ゲイのルームメイト、動きやすいペッタンコの靴を履いている看護士、マイノリティだらけのナニーたちと、すべてがティピカル、記号化された存在ばかりだ。
見せかたも、人物とロウ人形をダブらせて観察対象にしてみたり、アニーを分かれ道に立たせたり、『メリー・ポピンズ』を引用して「チムチムチェリー」や傘を登場させてみたりと、全体に「AといったらB」という結びつきで描く手法。つまり、それぞれの人物・価値観の独自性をあえて消しているような世界だ。
そんな中で、最初は観察に徹しようとするアニー。でも彼女だって「大学は卒業したけれど、何をしていいのかわからない」という、どこにでもいる女の子、拠りどころのない人間。“何者でもない”存在たちが暮らす世界に飲み込まれてしまうのも当然だったといえるだろう。
しかもタチの悪いことにアニーは、仕事が私を選んだとか、私が子育てをしているとか、驕りに満ちている。“何者でもない”存在が集まったって、なぁんにも生まれないということをまだ理解していない。「楽に見える道こそ地雷だらけ」というリネット、あるいは彼女を心配する母親(やや押し付けがましいけれど、母親ってのはそういうもの)、つまりアニーの周囲にする数少ない“血の通った人間”の言葉に、もっと耳を傾ければいいものを。
そんなアニーも(そしてミセスXも)、やがて気づく。“何者でもない”自分を瞬時にして何者かに変える呪文なんてないってことに。
大切なのは、自分はきっと何者かである(または何者かになれる)と信じること。目の前にいる相手もただの記号ではなく、何か理由があってそうなった何者かであること。認め合って本音をぶつけること。呪文があるとすれば、それは「スーパーカリフラジリスティックエクスピアリドーシャス」ではなく、相手のアイデンティティを認識して名前で呼ぶことなのだ。
たぶん多くの人にとっても、こんなふうに、「AといったらB」なんて決めつけることをやめて、自分の中だけに、その人の中だけに潜む“唯一”を認識することから、本当の自分探しは始まるのだろう。
終盤の流れがちょっと強引で性急、説得力には欠けるけれど、スカーレットやローラ・リニーの好演と軽快なテンポで楽しく観られて、自分探しへの第一歩について考えることのできる作品である。
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