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2011/01/10

電話で抱きしめて

監督:ダイアン・キートン
出演:メグ・ライアン/ダイアン・キートン/リサ・クドロー/ウォルター・マッソー/アダム・アーキン/ショーン・デューク/アン・ボルトロッティ/クロリス・リーチマン/マリー・チータム/ミンディ・クリスト/リビー・ハドソン/ジェシー・ジェームズ/エディ・マクラング/トレイシー・エリス・ロス/セリア・ウェストン

30点満点中16点=監4/話2/出4/芸3/技3

【3姉妹、振り回されるのは次女ばかり】
 有名雑誌「ジョージア」の編集長として辣腕をふるう長女ジョージア、イベント・プランナーの仕事に主婦業に母親業と大忙しの次女イヴ、昼メロに出演中の女優で奔放な性格の三女マディ。それぞれの道を歩むモゼール家の3姉妹だったが、父ルーが入院、気弱になったり物忘れが激しくなったり病院を抜け出したりし、その面倒はすべてイヴが引き受けることになる。慌しい中で彼女が思い出すのは、これまで家族に起こった出来事だった。
(2000年 アメリカ/ドイツ)

【重み・厚み・深みの不足】
 製作・脚本が『ユー・ガット・メール』などのノーラ・エフロン&デリア・エフロン姉妹で、主演がメグ・ライアン。ラブコメ色の濃い陣容の中でダイアン・キートンがメガホンを取った作品。
 確かにラブコメ的なテンポのよさ・流れのよさで勝負、回想とハプニングと衝突を適度に織り交ぜながら軽快にストーリーを進めるタイプの映画。と同時にキートン監督、女優らしく芝居を大切にした撮りかたも見せる。

 大仰なことをせず、手堅く「その場でおこなわれていること」を見せながら登場人物たちの心情をすくい取っていく、というイメージ。
 その人物の中で、笑ったり泣いたり困ったり当たり散らしたりといった表現を一身に担うのがメグ・ライアンだ。相変わらずのコメディ演技だが可愛らしさもコンパクトな体型もまた相変わらずで、見ていて楽しい。
 父ルー役のウォルター・マッソーも、見た目そのまんまの「ダメで、寂しくて、弱っていくパパ」をまっとうする。ダイアン・キートンもリサ・クドローも印象通りの役柄で無理がない。

 そんなわけで、観やすいし破綻もないしマズマズの仕上がりといえるのだが、いかにも“軽い”。ちょうどフジテレビで『わが家の歴史』が放送された直後に鑑賞したので余計にそう感じたのだろうが、“家族史”モノとしての重みや厚み深みが足りないのだ。

 いや『わが家の歴史』だって出来事の羅列という印象が強く、ドラマとしてのデキはそう褒められたもんじゃなかった。でも2時間オーバー×3夜連続という長尺と、昭和の世相・風俗・大事件をこれでもかと盛り込むことで重み・厚み・深み(というかギッシリ感)を生み出していた。かつ「ホームドラマを作りたいんだ」とか「この瞬間のためにいままでの時間があった」という作劇ベクトルもはっきりしていたといえる。

 ところが本作には、それがない。
 せっかく3姉妹の子どもの頃の写真をふんだんに用意したり(ウォルター・マッソーというキャリア豊富な役者を起用=若い頃のいい写真が多い、というのもポイントだ)、マディが5歳の頃の出来事をいまだに根に持っていたり、家族にとって印象的な出来事が回想で綴られたりなど、家族史の蓄積をにおわせるのに、それらは淡白な扱いに終始し、上手に“いま”ともつながらない。

 なぜジョージアが地位と成功を、イヴが温かな家庭を、マディが自由を求めるようになったのか、家族の存在が彼女らにどう影響を与えたか、そうしたことが描かれてはじめて、ラストも説得力を持つはず。
 また「ママはオレの半分を占めていた」というルーのセリフは凄く素敵だけれど、そうした“家族はたがいにかけがえのない存在”という事実を、エピソードや描写でわからせる配慮も必要だったはずだ。

 現状では、ただイヴが困ってドタバタし、家族とは何かという根本的な部分を曖昧にしたまま抱き合って終わり、という映画に過ぎない。
 たとえば「いつも頼りにならないのに、どうでもいいことだけ鮮やかに解決してみせるパパ。そのおかげで姉妹も助けられてきた」とか「唐突の電話に悩まされてきたけれど、それに助けられたこともあった。でも、もうパパから電話がかかってくることはない」といった要素をお話に取り入れるだけで、ずいぶん“情”は増すと思うのだが。

 まるでラブコメのような薄さが気になる、そんな映画である。

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