トロン:レガシー
監督:ジョセフ・コシンスキー
出演:ジェフ・ブリッジス/ギャレット・ヘドランド/オリヴィア・ワイルド/ブルース・ボックスライトナー/ジェームズ・フレイン/ボー・ガレット/アニス・チューファ/オーウェン・ベスト/キリアン・マーフィー/マイケル・シーン
30点満点中18点=監3/話3/出4/芸4/技4
【父を追う息子、デジタルの世界を翔ける】
エンコム社を取り戻したケヴィン・フリンだったが、ある日突然、7歳の息子サムを置いて姿を消す。それから20年、ケヴィンの盟友アランに届いたメッセージをたどり、デジタル・ワールドへ迷い込むサム。そこは父ケヴィンが創造した“完璧な世界を作るプログラム”CLU(クルー)が支配する世界。謎の女性クオラとともに隠れて暮らす父ケヴィンを救い、現実世界にも影響を及ぼそうとするCLUを阻止するため、サムの闘いが始まる。
(2010年 アメリカ)
【まずまず見どころの多い続編】
いろいろな意味で極めて真っ当な続編。とにかく、前作要素の踏襲&前作からの進化をふんだんに感じられる仕上がり。ケヴィンのキャラクターや背中のディスク、世界観など、基本的な設定に対する理解促進という点でも、前作を鑑賞してから劇場へ足を運ぶのがベターだろう(ケヴィンのゲーセンがそのまんま登場したり「END OF LINE」というキーワードが大切にされていたりして、ちょっと嬉しいし)。
全体に無機質ながら光と“狭い広がり”に満ちたデジタル世界(プロダクション・デザインはテーマパークのアトラクションやビデオ・ゲームにも携わっているダレン・ギルフォード、アート・ディレクターは『アバター』などに関わったケヴィン・イシオカ)の基本的なイメージは、前作と共通、どこかセット然とした空気感も前作通りだけれど、当然のようにディテールは美しくなっていて「そりゃあ30年たてば、こうなるわな」と素直に感心できる見た目。
たとえばタッチパネル式のキーボード、ライト・サイクル、アーチ型マシン、ラインが光るスーツといったガジェット類は、前作にも登場したモノ。それを最新のデジタル技術や“イマ風”のデザイン・センスで上手に処理してある。スーツ(衣装は『終わりで始まりの4日間』や『ウォッチメン』などのマイケル・ウィルキンソン)は、より身体にフィットし、お尻のあたりが実にセクシー。ライト・サイクルによるバトルにはカーブや高低といった概念が盛り込まれて、迫力とスピード感のアップを果たしている(ヴィジュアル・エフェクトは『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』や『ゾディアック』のエリック・バルバ)。
前作の「いかにもシンセ」的な安っぽさを器用に昇華させながらスケール感をプラスしたダフト・パンクの音楽は、彼ら以外に作れないものだろう。
パンフレットを読むと、前作は1コマずつ手書きでエフェクトを施したらしい。う~む、さすがに昔日。それが今回は3Dデジタル上映やフェイシャル・キャプチャー(若き日のジェフ・ブリッジスの再現が見事)といった先端技術が惜しげもなく投入されていて、製作サイドの「『トロン』は常に尖ってなければならない」という意識が感じられるようだ。
演出や画面作りには、現代風の歯切れのよさや神秘性(ゲームのガイド役女性たちがサムにスーツを着せるシーンが結構好き)を盛り込みつつ、やはり前作同様「どこかで観た雰囲気」を取り込んでいるのが印象的だ。子犬を登場させて『オズの魔法使』っぽさを増したり、『セブン』とか『2001年宇宙の旅』を想起させるところもあったり。
役者も、新旧混在。
ジェフ・ブリッジス(およびブルース・ボックスライトナー)の起用は当然、でなければこうしてPART2を作る意義すら失われてしまうだろう。本人は27年前との連続性を殊更に意識せず演じたそうだが、それが逆に、何もできず時間を過ごしてきたケヴィンの老いや諦観を際立たせる。そしてその諦観による“やつれ”の向こうから沸き上がってくるケヴィンの創造主としての底力は、まぁカッコいいこと。
そこへ、ギャレット・ヘドランドの軽すぎない軽さがスマートに乗っかっていく。ユーモアと苦悩とインテリジェンスを併せ持つ現代っ子サムを等身大に演じていて好感。人間離れしたボー・ガレットの美貌、精一杯に人間ぶるマイケル・シーンの奇妙さも、この世界に馴染む。
で、オリヴィア・ワイルド。実は本作を観るモチベーションの大半は彼女の存在だったんだけれど、期待に背かず魅力的だ。『Dr.HOUSE』のサーティーンで見せるシャープ&クールな顔立ちに加え、本作ではプログラムとしてのピュア&イノセンスがプラスされていて、なかなかに可愛い。
数ステージの苦難を乗り越えてカタルシスへ、というアドベンチャー・ゲーム的なストーリーもまた前作と同じ。それに、キッチリと“哲学”にも踏み込んでいる。
今回のテーマは、まずは理想世界についての考察。恐らくケヴィンはオープンでフリーなシステムを考えていたはずで、それゆえ絶対的・固定的なルールを否定し、自由意志を持つ成長途上のプログラムISOに可能性を感じたのだろう。特定の管理者が不在の中、自発的に芽生え、新しいこと・楽しいことへの好奇心と協調性をもとに、試行錯誤を重ねながら価値観を育んでいく、そんな、現実社会におけるネット空間の“ありよう”を示唆しているようで興味深い。表面的には「管理プログラムの暴走」というありきたりなドラマだが、そこにヴァーチャルな世界が実際に存在する現代(なにしろ前作当時はインターネットがなかったのだから)ならではの味つけを施した、といったところか。
ただ、そうした「ヴァーチャルな理想世界」への疑問も盛り込んであるように思える。たびたび瞑想に耽るケヴィンだが、その設定に「ただ頭の中で思い描いた妄想と、電子の中の世界(インターネットも含む)に、どれほどの違いがあるのか?」という問題提起を感じるのだ。
理想郷は、愛や向上心といった精神、あるいは自主的なルールの遵守だけによって築かれるのではない。痛みや犠牲をともなう行動、もっと先へ進みたいという強い意志とそれを実現する一歩、現実の出来事を受け止めそこから学ぶ覚悟から作られる……。そこまで読み取るのは、ちょっと考えすぎだろうか。
惜しいのは、タイトル・ロールでもある「トロン」の扱いがちょっとぞんざい(突然の心変わりが強引)だった点と、CLUの考える完璧な世界がどういうものか伝わってこなかった点。また肝心の3Dも、もっとメリハリを効かせてよかったように思う。
それらを除けば、正当な続編としての楽しさ、純粋なアクション・エンターテインメントとしての迫力、こめられた哲学など、まずまず見どころの多い映画といえるのではないだろうか。
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