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2011/01/18

ジンジャーとフレッド

監督:フェデリコ・フェリーニ
出演:ジュリエッタ・マシーナ/マルチェロ・マストロヤンニ/フランコ・ファブリッツィ/トト・ミグノン/フレデリック・フォン・レデブール/オーグスト・ポデロッシ/マルティン・マリア・ブロウ

30点満点中17点=監4/話3/出4/芸4/技2

【25年ぶりの再会、その場所は】
 人気TV番組『さて皆さん』のクリスマス・スペシャルに出演すべく、ローマへとやって来たアメリア。彼女はミュージカル・スター=ジンジャー・ロジャースの物マネで一世を風靡した人物だ。当時のパートナー、フレッド・アステア役として活躍したピッポとも25年ぶりに再会、オカマやミゼットやそっくりさんたち、作家にマフィアに海軍総督、さらには牛やチンパンジーまで、出演者でごった返す控え室で、ジンジャーとフレッドは……。
(1986年 イタリア/フランス/西ドイツ)

★ネタバレを含みます★

【ターニング・ポイントとなった作品】
 20歳の頃、同年代の友人たちといっしょに観た作品。その際、あるシーンで「自分は泣いているのに周囲は笑っている」という奇妙な体験をした。

 映画の中心にあるのは、あれもこれも節操なく“ネタ”にしてしまうTV業界への怒りと苛立ち。控え室やメイク室では、そりゃあもうクソもミソもいっしょくたになって、うごめく。
 ジンジャーとフレッドもまた、その一員。彼女らは決してクソではないけれど、高尚なアーティストでもない。所詮は物マネ・ダンサーに過ぎない。戦後から新時代へ、情よりも便利さが重宝される世の中へと時間が流れる中で、みぃんなまとめて亡霊になっていく、その中の1ピース。

 そんな彼女らも、自分だけの想いや記憶を抱いて生きている。それは誰にも否定されるべきではなく、みぃんなまとめてないがしろにされるべきものでもないはずだ。
 が、やっぱり大きな時代の流れやクソもミソもいっしょくたにしてしまう社会の中では、“個”なんて小っぽけな存在。ふたりだけの甘い世界は、牛のひと鳴きにかき消されることになる。

 ここ。この「ぶもぉぅ~」に人生の悲哀を感じて涙した。作品内の観客と同様、周りのみんなは笑っていたけれど。
 大袈裟にいえば、人生や映画に何を求めるのか、周囲と自分との価値観の違いを実感した作品、となるだろう。

 思えばその瞬間(というか「え? なんで笑うの」という違和感)から、自分の鑑賞メソッドとしての「映画の中に『小さな存在としての“個”』を意識して探す」行為が始まったのかも知れない。
 たとえば『花とアリス』のクライマックスは、まさに「小っぽけな自分にとっての人生の一大事、そのウラでは、自分の存在などお構いなしに、あれもこれもいっしょくたになって時間は流れている」というシーンだった。だからあの場面に感銘を受けたのだろう。

 ジュリエッタ・マシーナの「可愛いおばちゃん」っぷりやマルチェロ・マストロヤンニの「くたびれ果てて、もう何もかも捨ててしまったけれど、まだ小さな灯が哀しく燃え続けている」という中年オヤジぶりが見事。TV局内の、雑然として気に障るカオスも楽しい。
 いっぽうアフレコ(フェリーニが好む手法)への拒否感、全体を覆う古臭さのせいで、いま観る映画として高評価を与えることには抵抗がある。

 ただ、TV業界への腹立ちという監督の極私的価値観と、「小さな存在としての“個”」という普遍的テーマとを上手に結び付けた手腕は上々。自分自身に貴重な体験をもたらしてくれたことにも感謝したい、そんな1本である。

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