セント・オブ・ウーマン 夢の香り
監督:マーティン・ブレスト
出演:アル・パチーノ/クリス・オドネル/ジェームズ・レブホーン/ガブリエル・アンウォー/フィリップ・シーモア・ホフマン/リチャード・ヴェンチャー/ブラッドリー・ウィットフォード/ロシェル・オリヴァー/マーガレット・エジントン/トム・リース・ファレル/ニコラス・サドラー/トッド・ルイーゾ/マット・スミス/ジーン・キャンフィールド/サリー・マーフィ
30点満点中17点=監3/話3/出4/芸4/技3
【元軍人と悩める青年のNY行】
感謝祭の週末、名門ベアード高校に通うチャーリー・シムズは、退役軍人フランク・スレイドの面倒を見ることになる。盲目で気難しく、毒舌タップリの“大佐”は、いきなりチャーリーを遠くNYへと連れ出し、相変わらず勝手で傲慢な振る舞いを続ける。が、その陰にあるのは、自分には生きる価値などないという失意だった。いっぽうチャーリーも学校で、進学か、それとも裏切りかという重大な問題を抱えていた。
(1992年 アメリカ)
【身勝手な生きかたを肯定せよ】
一貫してチャーリーの目線で物語は進む。
彼を振り回すことになるのは、もうどう接していいのやらわからない初老の元軍人。暗がりの中、わずかに差す光を浴びながら座る姿、その登場シーンからして近寄りがたさが漂う。
できるなら関わりたくないし、さっさと仕事をすませて引き上げたいとも思う。でも、そんな刹那の出会いが何かをもたらすこともある。
大佐はスラングに「I'm Wizard」など詩人のようなセリフを織り交ぜて軽妙に話し、タンゴにフェラーリに美食と人生を楽しむ術も知っている。決して愚かな人物ではない。そして絶望もまた抱えている。
そのキャラクターが少しずつ露となっていき、ときに荒々しく、ときに心地よく、ゆっくりとチャーリーを揺さぶる。チャーリーにとって(タンゴを踊ることになったドナにとってもそうだが)彼は、どこか怖くて、どこか愛らしくて、危険を感じながらも目を離さずにはいられない、彗星のような存在、といったところだろうか。
大佐の偏狭さはもともとの気質で、盲目になったことでさらに増幅されたのだろう。が、視覚を失ったおかげで、大切なものをよりハッキリと認識できるようにもなったはず。すなわちニオイだ。
大佐の人生にとってのファースト・プライオリティは女性。ニオイに敏感で詳しいという彼の特技(?)は、彼女たちに近づく手段であり、女性ひとりひとりのアイデンティティを認識する拠りどころでもある。
そして「身勝手で嫌われ者で、明るさも暗さもあって、盲目でニオイに敏感でオンナ好き」という彼のキャラクターは、人間の生きかたを導き、肯定するものなんじゃないかと感じる。
どう振る舞おうが、近寄ってくる者もいれば離れていく者もいる。誰にだって見た目からは想像できない裏側がある。ならば余計なことを考えず、自分中心に、自分がもっとも大切にしているものだけに向かって生きればいいのではないか。愛情は、とりあえず押し付けてみて、近寄ってくる者にはさらに大きく与えればいい。
ラスト、チャーリーは大佐の演説に助けられたというよりも、大佐の体現する価値観がチャーリーを導き、肯定してくれたのだと捉えられる。だからこそ感動を呼ぶのだろう。
本作でオスカー受賞のアル・パチーノについては、いうことなし。盲目の演技に加えて感情の起伏も大胆かつ繊細に披露し、芝居らしい芝居を見せてくれる。「飛び抜けた役者がいれば周囲も引っ張られる」理論に従い、クリス・オドネルが、振り回されながらも大佐に何かを与え、何かを与えられるチャーリーを好演する(フィリップ・シーモア・ホフマンの高校生には最後まで馴染めなかったけれど)。
このふたりの様子をオーソドックスに、主に会話する姿を交互に撮るという体裁で映画的なダイナミズムには乏しいが、両者の芝居を大切にし、心の揺れ動きを装飾なく捉えていくという作り。
それと「雑踏の中のふたり」を描いた場面が多いのも特徴。他の人たちの会話はシャットアウトされ、チャーリーと観客は大佐の言葉だけに耳を傾けることになる。これもまた「身の周りの多くの事柄の中から、何を大切に考えて行動するか。それが人生の歩みかた」という本作のメッセージを具現化したシーンだろう。
でもまぁ盲人が運転するフェラーリ(すごく爽快なシーンだけれど)には同乗したくないなぁ。
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