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2011/06/19

さや侍

監督:松本人志
出演:野見隆明/熊田聖亜/板尾創路/柄本時生/りょう/ROLLY/腹筋善之介/清水柊馬/竹原和生/伊武雅刀/國村隼

30点満点中19点=監4/話4/出4/芸4/技3

【さやだけを持つ武士、三十日の業】
 妻の死をきっかけに刀を捨て、さやだけを持ち歩く武士、野見勘十郎。職務も放棄し、娘たえと逃亡の日々を送っていた彼は、多幸藩内にて捕縛される。藩主が勘十郎に言い渡したのは“三十日の業”。母が死んで以来感情を忘れた若君に一日一芸を披露し、三十日の間に笑わせることができれば無罪放免、成せなければ切腹だ。生き恥を曝すくらいなら自害すべきというたえに対し、牢番の助けも得ながら粛々と業に挑む勘十郎だったが……。
(2011年 日本)

★ネタバレを含みます★

【いくつもの顔を持つ映画】
 三人の刺客に次々と襲われる序盤。いきなり三味線を抱えた女が登場したりロッカーが二丁短銃を振り回したりと、かなりのオフザケ。斬られても撃たれても勘十郎はへっちゃらだし。
 ただのコント的な映画にしようとしているのかな、それとも映画的なコントにしようとしているのかな? などと考える。

 が、“三十日の業”で披露されるベタな宴会芸や曲芸へと進むと、もう少し奥の深いテーマが潜んでいるように思えてくる。

 勘十郎が繰り出す一日一芸は下品で完成度が低くて笑えないものばかり。まぁ「口三味線」や「大タコの乱」のバカバカしすぎる迫力、「蛇結び」のリアクションなどはそれなりに面白いが、ネタそのものや勘十郎本人のキャラクターよりもむしろ、たえが「自害しましょう」と吐く絶妙の間(ま)、適度にアドリブでツッコミを入れる牢番、「やっぱりウケなかったんだ」と悟らせる編集など、ひとつの芸の周囲まで含めた“構成”によって観客を楽しませようとする作り。
 そして「それだけの手間ひまをかけて、結果これかよ」という匂い、「命を賭してまで笑いを取る」ことに対する疑問、誰もが笑いを批評する社会、笑いが生み出される現場での作家がいて演者がいてダメ出しをするお偉いさんがいてという構造……。

 ここへきて「笑いを提供する、ということの総合性」や「それを受け取る側の反応」を詰め込んだ“お笑い論”映画のように感じられてくるのだ。
 ただそうすると、起用されるべきは素人ではなく松本監督本人や他の芸人だったかも知れない。“スベリ”を描き、“スベリを笑う(確か松本監督自身は、いわゆるスベリ芸に対して否定的であるはず)”へと持って行ってこそ“お笑い論”映画は完成するのではないか。素人ならではのおかしみだけでは、1本の映画を支えきれない。

 ところが、町人たちが懸命に勘十郎を応援しはじめると、また別の要素が表出してくる。
 成功への純粋な期待。失敗へのちょっとイジワルな期待。「若君を笑わせる」という目的ではなく、その手段である芸そのものへの期待。もはや“三十日の業”は本来の意味を失って、笑いと感動とを共有する場と化す。まるでスポーツの試合のように。
 ああそうか。笑いであれ戦いであれ、名もなき者が大きな相手にぶつかっていくところでは、「笑いあり、感動あり」と別個に存在するのではなく、笑いと感動が同一地点でイコールとなって渦巻いているものなのだ。そういう人の世の真理に迫ろうとした映画なのだ。
 ならば、名もなき者=素人の起用にも納得がいく。

 そしてクライマックス、監督自身が「僕が演じていたら許されない」という切腹シーン。勘十郎の決断は、あまりにアクロバティックな着地
 いや物語的には真っ当な着地点だ。『大日本人』でも『しんぼる』でもアクロバットな結末は見せていた。が、今回まさかそう来るとは。確かにこの展開は、名もなき者だからこそ許されるもの。
 松本監督作はどこかに「自分が映画を撮っていることに対する照れ」のようなものがあったのだが、ここではそれをいっさい排除。突然の歌(竹原和生の坊主が持つパワーが凄まじい)も、「首が~」も、一瞬「また裏切りの笑いへ持っていくのか」と思わせておいて、結局はすべてを“命のファンタジー”として収束させてしまう。

 この人の映画で泣かされるとは思ってもいなかった。『大日本人』も『しんぼる』も好きだし、松本的であるけれど、それらを踏まえたうえで裏切る本作もまた松本的といえるのだろう(前2作を観ていてよかった)し、好きな作品となった。

 ほかに気づいたこと、考えたことをいくつか。
 ただのおじさん=野見隆明の起用がひとつのウリであり、それが成功もしているのだけれど、むしろ熊田聖亜という才能を得たことが本作の大きな勝因だろう。あくまで子役芝居ではあるものの、たえという役柄にハマっていて、物語をシリアス方向へ引き戻す力もあって、上手い。

 ゴリゴリの「どういうことなんだよっ」に一瞬だけ投げかけられるお竜の冷ややかな目、父をキっと睨みつけるたえ、平吉を「何やってんだ?」と呆れたように見る倉之助、たがいに顔色をうかがう殿様と家老……。
 視線を重視した演出には、感情のこもった“見つめ”から何かが始まる、というテーマが隠されているように思えるし、と同時にこの作品トータルでの“味”としても機能しているように感じる。

 そのあたりも含めて、撮影や編集、衣装・美術、音楽の乗せかた、VFXなど、作りとしては手堅く、『大日本人』や『しんぼる』のような見た目の奇抜さはない。ちゃんと時代劇を撮ろうとした(まぁ「からくり暴れ馬」なんか時代劇じゃないけれど)というイメージ。
 それと松本監督って他の芸人監督と比べて、ひとつひとつのカット/シーンがあまり野暮ったくならず、かといってスタイリッシュでもなく、適度にキマって適度に落ち着いている印象がある。

 刀は死、さやは生の象徴か。さやに入った刀は、抜く抜かないによって生死をつかさどるもの。さやに刀が収まって、ようやく生と死は同一地点に揃うこととなる。人生に絶望した勘十郎だが、まだ自分の手から完全に生死の運命が離れてしまうことを恐れてもいて、生への執着もあって、だから捨てたのは刀だけだし、ひたすら逃げ続ける。
 ただし、さやと刀が揃わないと人とは呼べないことにも勘十郎は気づいている。だから実は、“三十日の業”の出し物それぞれは彼にとってどうでもよくって、さやだけ=生だけの身としての懸命の振る舞い、あがきを存分に見せることだけが大切。そして刀=死の覚悟とともに、つまりは自らの手に生死の運命をともに取り戻したうえで、人であることを終える。
 そうして生き、死んでいく姿、生きざまと死にざまも同一地点にあることを教えて、たえに別れを告げたかったのだろう。
 ああ、ひょっとすると刀=男としての自分、さや=女としての妻、という意味もあり、そこから“めぐる命”へつながるのかも知れない。

 こう考えていくと本当に、いくつもの顔を持ち、読み取りや考察を求める要素にあふれた作品だなぁ。

●主なスタッフ
 脚本協力に名を連ねる高須光聖や、編集・本田吉孝、美術・愛甲悦子と平井淳郎、音楽・清水靖晃らは『しんぼる』と同じ面々。
 ほかでは撮影が『天然コケッコー』の近藤龍人、衣装デザインが『クライマーズ・ハイ』『ちーちゃんは悠久の向こう』などの宮本まさ江。

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