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2011/07/07

愛を読むひと

監督:スティーヴン・ダルドリー
出演:ケイト・ウィンスレット/レイフ・ファインズ/デヴィッド・クロス/ブルーノ・ガンツ/ハンナー・ヘルツシュプルング/スザンネ・ロータ/マティアス・ハービシュ/モリッツ・グローヴ/ヴィエスナ・フェルキッヒ/フォルカー・ブルッフ/カロリーネ・ヘルフルト/リンダ・バセット/ジャネット・ハイン/レナ・オリン

30点満点中20点=監4/話4/出4/芸4/技4

【彼女と彼が背負うもの】
 1958年の西ドイツ、ノイシュタット。間もなく15歳になるマイケル・バーグは、街中で体調を崩したところをトラムの検札係ハンナ・シュミッツに介抱され、やがてふたりは逢瀬を重ねるようになる。ベッドで愛し合う前、必ずマイケルに“朗読”を求めるハンナ。が、彼女が突然姿を消したことで、その関係はひと夏で終わる。数年後、大学で法律を学ぶマイケルは、思わぬところでハンナと再開する。彼女は、大きな秘密を抱えていた。
(2008年 アメリカ/ドイツ)

★ややネタバレを含みます★

【“欠け”を持つ存在としての人】
 スティーヴン・ダルドリー監督といえば『リトル・ダンサー』。生涯の中でもかなりお気に入りの1本だ。“明かり”が印象的な映画だったが、本作でもその特徴は生きている。
 とにかく、ハンナとマイケルを包む光が温かく、透明感にあふれている。ところが一転、ある歴史的な場所で光は哀しく空間を覆う。そのほか、湿った曇り空や冷たい室内など「明るさ・暗さ・色調のコントロールによって作られるその場の温度感と、それによって表現される世界の意味」に配慮した絵づくりだ。

 撮影監督は『メルキアデス・エストラーダの3度の埋葬』『スタンドアップ』『あるスキャンダルの覚え書き』などのクリス・メンゲスと、『ジャーヘッド』『ノーカントリー』『告発のとき』などのロジャー・ディーキンス。どういう経緯・担当の振り分けでオスカー級がふたりもクレジットされたのかはわからない(どちらかといえば前者の支配力が大きいように感じる)が、それだけ「見せたい絵」に強いこだわりがあり、それがこの監督の技・アイデンティティであることは確かだろう。

 プロダクション・デザインは『アモーレス・ペロス』『21グラム』『バンテージ・ポイント』などのブリジット・ブロシュで、ハンナが暮らす2つの部屋を生活感豊かに作り出す。純朴さなど、登場人物の人となりを表すような音楽はニコ・ムーリー。
 編集は『ナイロビの蜂』などのクレア・シンプソンで、通常の感覚よりやや速いタイミングでバツっとシーンを切ることで、第三者的な視点を確保しているように思える。

 キャストは、まずはケイト・ウィンスレット。訛りとか化けっぷりとか、体当たりのベッド・シーンとか、そうしたわかりやすい熱演に加えて、一瞬のためらいの表現が上質。そして、背中の掻き跡が素晴らしい。『レイチェルの結婚』のアン・ハサウェイ、『チェンジリング』のアンジェリーナ・ジョリー、『ダウト~あるカトリック学校で~』のメリル・ストリープらをおさえてのオスカーだが、その栄誉に恥じない芝居だろう。

 若きマイケル役のデヴィッド・クロスも、純朴さと愚鈍さ、知恵と身勝手とを上手に混在させての好演。マイケルの娘ジュリアを演じたハンナー・ヘルツシュプルングも「もっと知りたい」「近づきたい」という想いを顔にあふれさせる。後で『4分間のピアニスト』の彼女だと知って、あまりの違いに驚かされた。

 登場シーンの少ないバーグ家の面々も含め、全体に微かな表情で好奇心や覚束ない決意などを表現していて、演技ディレクションの確かさを感じ取ることができる。
 また、足取りだけで“浮かれ”を表す階段のシーン、ひとつの出来事を経ると世界が変わって見えることをユーモラスに示す食卓の場面、サイクリング旅行の際に「わかる観客は気づく」程度で描かれるハンナの秘密、その秘密を「ある事実」といういいかたで処理する展開など、見せてわからせる・気づかせる・考えさせることに配慮した作り。このあたりにも監督の、映画に対する価値観が現れていて嬉しい。

 さて、内容について。
 前半からは思いもよらない展開が後半に待っている(同じく予想外の方向へと収束する『アザーマン もう一人の男』も本作も原作はベルンハルト・シュリンク。続けて観たのはまったくの偶然)わけだが、テーマは一貫している。“戦争”と“個”のつながりだ。

 ハンナの秘密=人としての“欠け”は、ミルクの瓶を洗ったり石炭を運んだりといった生活を送るには、あるいは愛を営み、仕事をこなすには差し支えのないものだ。ラテン語で歌われる「Pueri Hebraeorum」に涙する姿を見れば、美に対する感受性を奪うものでもなかっただろう。
 だがその“欠け”は、彼女を文化や物語への盲目的な渇望へと追いやり、ひょっとすると想像力の欠如も呼び、それが「恥」という感情を過剰に育んで「律儀さ」という処世術となって結実したのかも知れない。そしてその生きざまは、戦争への加担につながることとなる。

 マイケルの父は、突然与えられた自由への戸惑いからか、はたまた戦争や虐殺を間接的に支持したことに対する後悔からか、その無気力な振る舞いには世界への負い目というものを感じさせる。逆にマイケルの母は、同じ負い目を子どもたちへの厳格な態度へと昇華させたようだ。
 ホロコーストを生き延びたマーサにとって、もはや理由とか経緯とか他人の感情などは問題ではなく、ただわが身に纏わりつく「凄惨な体験としての戦争」だけがすべてなのだろう。
 そしてマイケル。彼自身に戦争の記憶は残っていないだろうが、だからこそ「自分にはどうしようもできなかったこと」に苛まれ、その絶望感は行き場を失くし、彼の人格は娘ジュリアにまで影響を及ぼすことになる。

 もしすべての発端が“欠け”だとするなら、そこから連なる想いや出来事は、どれほど多くの人を、どれほど深く傷つけたことか。
 それを強烈に示すのが、ラスト近く、マイケルがハンナに面会する場面。別れ際、ほんのわずかだけキスを期待するような素振りを見せるハンナと、まったく気づかず、というよりも、そうしたいという思いを失ったかのようなマイケル。“欠け”を乗り越えたように思えて実は、そこまでふたりは離れてしまっていたのだ。

 それに、戦争そのものを引き起こしたのも人間の中に潜む“欠け”。そう思うと、罪とか赦しとか、そんな考えかたじたい無意味、そもそも人は不完全であって、どんな困難も乗り越えられず、ただ罪を繰り返して傷つけあって誰も赦せない生き物、などと感じられて、空しくなってくる。

 どうやらこれは、ただハンナという女性、彼女と関わったマイケルという男性だけの物語ではない。“欠け”を持つ存在としての人すべてを、憐れむような映画に思える。
 ただ、ひとつの救いは、マイケルが述懐する相手を持つことだろう。それがジュリアの“欠け”を埋めることになればいいのだけれど。

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