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2012/03/02

暴力脱獄

監督:スチュアート・ローゼンバーグ
出演:ポール・ニューマン/ジョージ・ケネディ/J・D・キャノン/ルー・アントニオ/ロバート・ドリヴァス/ストローザー・マーティン/ジョー・ヴァン・フリート/クリフトン・ジェームズ/モーガン・ウッドワード/ルーク・アスキュー/マーク・キャベル/リチャード・ダバロス/ロバート・ドナー/ウォーレン・フィネーティ/デニス・ホッパー/ジョン・マクリアム/ウェイン・ロジャース/ディーン・スタントン/チャールズ・タイナー/ラルフ・ウェイト/アンソニー・ザーブ/バック・カータリアン/ジョイ・ハーモン

30点満点中18点=監4/話3/出4/芸3/技4

【彼が刑務所に入った理由、出て行く訳】
 酔っ払ってパーキング・メーターを破壊し、懲役2年の実刑判決を受けたルーク。労働刑務所では道路の舗装・整備という過酷な仕事と、絶対服従のルールが待っていた。だがルークはシニカルに笑い、飄々と看守や受刑者たちを出し抜き、勝ち目のない戦いにも果敢に挑んで、囚人たちの仕切り役ドラッグラインから気に入られるようになる。間もなく刑期を終えようという頃、外で起こったある出来事を機に、ルークは脱獄を図るのだが……。
(1967年 アメリカ)

【僕らは破滅を望んでいる。ただし自分以外の】
 観るたびに思い出すのは、浜田省吾の『パーキング・メーターに気をつけろ!』。曲のタイトルと本作の内容の符丁的同一性に加え、どちらも、ほんの些細なキッカケからその後の人生を台無しにしてしまう“自己破滅型”の人間を描いているという点で共通している。

 ただ、どうもそれだけではなさそうだ。

 ルークがパーキング・メーターのクビを次々とちょん切ってしまった理由として語るのは「他にやることがなかったから」。が、それは嘘だろう。むしろ「何をやっても、結局どうしようもないから」ではないか。
 意味のないルールに支配されている刑務所。それは恐らく鉄網の外でも同じ。ベトナム空爆やら人種問題の過熱やらで焦げ臭くなった当時のアメリカにおいて、くだらないルールに従って生きても何ら報われないことに、ルークだけでなく大勢がイライラを募らせていたことだろう。規定の時間を超過したパーキング・メーターのように、やがてイライラは限界に達し、赤く静かに怒りが噴出することになる。
 つまりパーキング・メーターの破壊じたい、自己破滅の隠喩なのだ。

 刑務所の中でルークは、「自分にはやれないと思われている評価を否定するための挑戦」に明け暮れる。成功したり失敗したりだが、たとえ成功したとしても、どうということもない。後から思い出されるのは、満足と諦めとが混じったような彼の笑顔だけ。ただしその笑顔は、大きな社会の中で名を残せない者が、精一杯に足掻いた証拠でもある。

 もちろん彼の行動は“自己破滅まっしぐら”に他ならないのだが、そんなルークを受刑者たちは、頼もしく、好ましく感じている。(自分に代わって破滅してくれる)自己破滅型人間に対するニーズが社会にはある、といったところだろうか。
 なにしろ囚人たち、ちょっとイロっぽいオネぇちゃんを見れば夜も眠れないほど悶々とし、休日には縄跳びに興じる、そんなガキども。ルールに不満を覚えていても、自分を破壊してまで挑む度胸などあるはずもなく、だから他者に望みを託す。その反抗が成功すればよし、失敗して結局は自己破滅に終わったとしても、足掻いた跡が残るなら、それもまたよし。

 してみれば、イエス・キリストは世界でもっとも有名な自己破滅型人間なのかも知れない。そして、イエスと同様、何も持たず強者に挑んでいく主人公の姿は、原題でもある“クール・ハンド・ルーク”と称えられ、神への不信を堂々と口にする彼もまた救世主であることが提示されるのだ。

 作りとしては、現代的基準からすると少なめのカット数ながら、幾何学的に捉えるパーキング・メーターの列、手前と背景とを意識した構図、一転してルークがバンジョーを弾くシーンでは飾らずに彼の心情を写し取るなど、堅さと柔らかさを自在に使い分けるカメラが印象に残る(撮影は『明日に向って撃て!』『アメリカン・ビューティー』などのコンラッド・L・ホール)。

 が、それ以上に、ああ最終的には追い詰められた人って、そっちへ突き進むのね、そしてそれを実は周囲も期待しているのね、という人の世の真実が印象的な作品である。

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