ジュリー&ジュリア
監督:ノーラ・エフロン
出演:メリル・ストリープ/エイミー・アダムス/スタンリー・トゥッチ/クリス・メッシーナ/リンダ・エモンド/ヘレン・ケアリー/メアリー・リン・ライスカブ/ジェーン・リンチ/ジョアン・ジュリエット・バック/クリスタル・ノエル/ジョルジュ・バルテニエフ/ヴァネッサ・フェルリト/ケイシー・ウィルソン/ジリアン・バック/アンドリュー・ガーマン
30点満点中18点=監3/話4/出4/芸4/技3
【時空を超えた、ふたりの主婦の物語】
外交官の夫ポールとともにパリで暮らすジュリア・チャイルド。時間を持て余した彼女は、いちばん好きなこと=食事を極めようと料理教室に通い、やがてフランス料理をアメリカ家庭に紹介した人物として知られることになる。50年後のNY、編集者エリックと暮らす役所勤めのジュリー・パウエルは、憂鬱な日々を振り払うため、ジュリアの著書に載っているレシピをすべて再現、ブログで報告するというチャレンジを始めるが……。
(2009年 アメリカ)
【つながりに支えられて】
旦那さんのポールがいい。物静かで生真面目だけれどユーモアもあって、ジュリアに注ぐ視線は常に温か。テーブルに足を投げ出して座る妻をたしなめるのではなく、その脚をひょいっと持ち上げて座る仕草とか、「どこだろうと、僕らがいればそこが家」と前向きなところとか。
メリル・ストリープの「ザ・芝居」(オホホなセリフ回しより、トロンとした目つきが印象的)が生きるのも、スタンリー・トゥッチの控えめな存在感があったればこそ。『プラダを着た悪魔』とはまったく異なる関係なのに不自然じゃないってのが凄い。
NYサイドの夫、クリス・メッシーナ演じるエリックがジュリーに向ける態度はもうちょっとドライ(妻の料理にいきなり塩を振っちゃうんだもん)だが、同時に感情的。その肩肘張らない現代っぽさがジュリーをナチュラルに支えていることは確か。こちらも控えめに、キッパリとしたエイミー・アダムスの芝居を輝かせている。
こうした生身のつながりが本作の大きなテーマじゃないか。
著書や手紙やブログといった、間接的な、時間と空間を越えたつながりで誰かが誰かに影響を及ぼす。それもまた素晴らしいことだろう。
とりわけ子どものいない(つまり自分が生きた証を生物的には残せない)ジュリアや、電話で9・11の遺族と話す(深い悲しみを電気信号越しにしか感じられない)ジュリー、大きなストレスを抱えるふたりにとって、「私はここにいるのよ」と不特定多数へ向けて発信する行為はライフワークといえるものであり、自らの存在証明でもあるはずだ。
でもそれって、時には相手に不快感を与えても気づかないほど一方的なものになってしまったり、どこかイビツなコミュニケーション(サラダ・ランチのシーンが象徴的)になったりしがち。
ましてやジュリー&ジュリアは料理という「実際に味わわなければわからないもの」を媒介に他者とつながろうとしているわけで、やはり実在としての「私とつながっている人」を求めてしかるべきだろう。
つまみ食いしてもらえる幸せ、ってのもあるのだ。
そんな幸せをどこか当然のものとして受け取っている節のあるジュリー&ジュリアだけれど、女を「うん、当然なんだよ」と甘やかすのも男の甲斐性なんである(っていうかノーラ・エフロンも女性だから、そういう価値観を疑問なく持っているのかも)。だからこの映画では、女性を描いていながら男が粋なのだ。
撮りかたとしては、ちょっと古いというか、50年前っぽさをそのまま出して(プロダクションデザインは『私がクマにキレた理由(わけ)』のマーク・リッカー、衣装は『ダウト~あるカトリック学校で~』や『マンマ・ミーア!』のアン・ロス)、ニューヨーカーっぽさもそのまんま出して、よくいえば気取らずまとめた感じ。
料理をこれっぽっちも素敵に撮らないのは「主婦の家庭料理」だからいいとして、それとジュリアのデカさはまあまあ伝わっていたけれど、全体にフツーすぎて、たとえば50年前と現代の料理のシンクロをもう少しセンスよく見せる場面があってもよかったと思う。
が、「自分は何をやっているんだろう」と悩んでいる人に、まずは周囲を見回して、つながりを確認して、それからは「気にしないで楽しむこと」という勇気を与える、そんな映画ではあるだろう。
あ、ちなみに、ジュリア・チャイルド(実在の人物)についてはまったく知らなかったけれど、自分の考えかたとか料理好きは、確実に『世界の料理ショー』のグラハム・カーから影響を受けています。
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コメント
こんにちは、吉野と言います。
面白そうな映画ですね。
メリルストリープは大好きな女優さんです。
投稿: 健康ダイエット◆吉野ゆう | 2012/04/27 17:08