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2012/05/31

トゥルーマン・ショー

監督:ピーター・ウィアー
出演:ジム・キャリー/ローラ・リニー/ノア・エメリッヒ/ナターシャ・マケルホーン/ホーランド・テイラー/ブライアン・ディレイト/ブレア・スレイター/ピーター・クラウス/ハイジ・シャンツ/ロン・テイラー/ドン・テイラー/フリッツ・ドミニク/アンヘル・シュミット/ナスターシャ・シュミット/デイヴィッド・アンドリュー・ナッシュ/ハリー・シェアラー/ウナ・デーモン/フィリップ・ベイカー・ホール/ジョン・プレシェット/フィリップ・グラス/オーラン・ジョーンズ/クリスタ・リン・ランドルフ/ジョー・ミンヤレス/テリー・カミレッリ/ジョエル・マッキノン・ミラー/トム・シモンズ/ユージ・オクモト/ポール・ジアマッティ/アダム・トメイ/エド・ハリス

30点満点中21点=監4/話5/出4/芸4/技4

【すべてを見られている男】
 小さな島の小さな町シーヘブン、閑静で瀟洒な住宅地、看護師の妻メリルと暮らすのはトゥルーマン・バーバンク。幼い頃に海の事故で父親を亡くしてから水を恐れるようになり、町にある大学を卒業し、保険会社に勤め、親友は自動販売機に飲料を補填するマーロン。この平凡な男性が他人と大きく違うのは、出生から30年に渡り、隠しカメラで全人生を撮影され、世界中に中継されていることだ。ある日、自分の周囲に不信感を抱いた彼は……。
(1998年 アメリカ)

★ややネタバレを含みます★

【僕らの物語】
 十数年ぶりの鑑賞。なんとなく「結構シンプルなシチュエーションSFコメディ&サスペンス」というイメージが心に残っていたのだけれど、いまはまったく別の感慨を抱いている。

 作り物に対するアンチテーゼとしての作り物=TV番組「トゥルーマン・ショー」という存在の奇妙さ。さらにそれを映画として見せる荒業。クライマックスでは、いつしか番組の“視聴者”と、われわれ“映画の観客”がイコールになっていることに気づく。とんでもないメタ構造。
 どこまでも(少なくとも本作以前は)わざとらしいジム・キャリーの起用も確信的なものだろう(なんと本作でゴールデン・グローブ賞を受賞)。

 撮りかたは、超望遠から広角まで多彩な画角とサイズを用いつつも、ややベタっとして軽めで、ビデオライクともいえる質感。隠しカメラで撮影したドキュメンタリー・ドラマという体裁に見合った画質だ。サウンドトラックも即興で演奏しているというカタチ。
 とはいえ「通常の映画撮影」的なカットや「映画としてのサウンドトラック」も混じり、映画的なリズムと見やすさが生まれている。
 TV番組としての“それっぽさ”と映画としての“作り”のバランスに配慮している印象だ。

 また箱庭のようなシーヘブンの街並や、そこに暮らす人々の衣装は、絵に描いたような平和な地方都市という雰囲気を漂わせつつ、どこか嘘っぽさも感じさせる。つまり“作られた世界”としてのリアリティと、その“作られたリアリティ”はすなわち“ウソ”であるという真理に満ちたデザイン・ワークといえる。

 意外と複雑な“作り”であるわけだが、ストーリーや展開は確かにシンプル。というより、細かな説明は省き、番組制作の裏側をほとんど見せず、ふくらますことができるところをふくらまさずにドンドン突き進んでいく。
 たとえば番組の収入源が広告であることを、解説するより先に観客に気づかせるという描きかた。マーロンがいつも持ち歩いている缶ビールも、彼の家やクルマの中にタンマリとストックされていると思われるが、そういう場面はなく、観る者の想像に委ねる。
 ライトを落下させた技術者や雨を降らせるマシンの責任者は厳しく叱責されているだろう。トゥルーマンの突発的な行動に対するエキストラたちの反応は、その都度細かく指示されているはず。が、そういう部分の描写も(もっと入れたくなるところだが)大胆に省略している。

 そうしたメタ構造+省略により、ひたすらフォーカスはトゥルーマンの思考・言動に当たり、人生の意味を考えさせ、ひいては「これは私たち自身の物語である」という感慨をも抱かせる作品に仕上がっている。

 このショーの主役には、他にも候補者がいたという。ならば、私たちがトゥルーマンになっていても不思議ではなかった。いや、周囲にあるのが作られたものであろうとなかろうと、衆人環視であろうがなかろうが、僕らはみなトゥルーマンなんじゃないだろうか、とも思う。
 トラウマや家族関係や仕事など、私たちを“いまの境遇”につなぎ止めているものの、なんと多いことか。あるいは想い出や憧れなど、私たちを“ここではないどこか”へ引っ張るものの存在(写真のモザイクでローレン/シルヴィアを再現するというアイディアが素晴らしい)。誰もが、そのふたつの間でもがきながら生きているのだ。

 周囲に自然とあるものも作られたものも、受け取る側にとってはどちらも切実な事実。自分にはどうにもならないという点で等しく、と同時に、どうにかなるかも知れないという点でも等しい。
 だが、どうせ直面するなら正真正銘の“リアル”でありたい。そういう思いを抱けるなら、誰もがトゥルーマンなのだ。

 トゥルーマンの決断に喝采を贈る映画内の“視聴者”の様子からも、そうしたメッセージがうかがえる。いっぽうで、非人道的であるはずの「作られた人生」に対する熱狂とか、ところがどんなに感情移入したところでしょせんは他人の人生、他にも同列に楽しいものが世の中にはあふれている、といった批判精神も本作にはこめられているはずだ。
 ただ今回、ショーの生みの親にしてトゥルーマンに親性を感じているクリストフ(エド・ハリスの名演!)の表情が、彼にもまた「リアルへと一歩を踏み出すトゥルーマンへの期待」があったんじゃないかと思わせて、作品の重心は批判よりも希望に寄っているのではないか、と感じた。

 人生の生中継というと『エドtv』(奇しくも同じ1998年の作品)が思い浮かぶが、あちらが「もしも」というアイディアから派生するあれやこれやでストーリーを組み立て、題材から考えられる要素をビッシリと詰め込んだ映画とするなら、こちらは、いいたいことや人生の真理がまずあって、それを表現するためにこの設定が作られた、という雰囲気がある。
 製作・脚本は『ガタカ』のアンドリュー・ニコル。間違いなく才人、少なくとも私の心に響くものを作ってくれるクリエイターのひとりだ。

 ほんの少し、性急に話を進めたきらいはある。現実離れした設定であることも確かだろう。ケータイやネットが普及した現在なら、なおさら困難に思える。だが「わたしの100本」どころか、「わたしの10本」に入れたくなる余韻を残す映画である。

●主なスタッフ
 撮影は『すべてはその朝始まった』のピーター・ビジウ、音楽は『幸せのレシピ』などのフィリップ・グラス。プロダクション・デザインは『ビッグ・フィッシュ』のデニス・ガスナー、衣装は『マスター・アンド・コマンダー』に携わったマリリン・マシューズ。

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